2009.01.07
伊東義益の和歌
「閑(しづか)なる時世に花もおくれじと
先づ咲きそむる山櫻かな」
日向記巻八の「田原山陣 並 義益早世時」のところに
でてくるそうなので、辞世かもしれません。
「辞世」と「時世」をかけたような気もしますが、
島津氏との対陣中に亡くなっているので「閑なる」には
違和感を感じます。
「閑」には暇という意味もありますので、病床で
動けないもどかしさも含んでいるのかな・・・?
●伊東義益
【生没】天文15(1546)~永禄12年(1569)
日向飫肥城主。義祐の子。永禄3年には家督を継ぎ、
伊東氏の全盛期をつくりましたが、島津氏との
対陣中に24歳で病死しました。
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2008.12.19
伝・竹中重治の和歌
「城攻の一番乗は他力にて
鎗あはするは自力なりけり」」
この和歌は「佃が軍歌」にあり、竹中重治の歌と
伝えられているそうです。
●竹中重治(半兵衛)
【生没】天文13(1544)~天正7年(1579)
はじめ美濃の斉藤竜興の家臣。わずか十数人で稲葉山城を
奪取したことは有名。その後近江の浅井長政に出仕し、
織田信長の美濃平定後は信長に仕え、豊臣秀吉に属しました。
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2008.09.16
丹羽長重の和歌
「年へてもかはらぬ庭の松の葉に
契かけおくゆくへたがふな」
●丹羽長重
【生没】元亀2(1571)~寛永14年(1637)
聚楽第行幸記より、寄松祝に詠まれたものです。
「庭」に「丹羽」をかけているようです。
子孫に道を間違うなと言っているのかもしれません。

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2008.08.01
別所長治の一族の辞世
別所長治の辞世
「今はただ恨もあらずもろ人の
命に代る吾が身と思へば」
は既に2004/12/04に掲載済みですが、三木城落城の際、
城兵の助命を条件に自刃した長治とともに亡くなった妻や
一族、家老の和歌が信長公記に並んで紹介されていました。
(参考:「現代語訳・信長公記(下)新人物往来社」)
・別所長治の妻
「もろともに果つる身こそはうれしけれ
後(おく)れ先立つ習ひなる世に」
・別所友之(長治の弟)
「命をも惜しまざりけり梓弓
末の代までも名の残れとて」
・別所友之の妻
「頼め来(こ)し後の世までに翅(つばさ)をも
並ぶる鳥の契りなりけり」
・別所吉親の妻
「後の世の道も迷はじ思ひ子を
つれて出でぬる行く末の空」
・三宅肥前入道(家老)
「君なくば憂き身の命何かせん
残りて甲斐のある世なりとも」
参考にした「信長公記」では、長治26歳、友之25歳
だったそうで「寛政重修諸家譜」では長治23歳。
生年不明です。
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2008.07.23
荒木村重と妻の和歌
伊丹城に残された荒木村重の妻ダシが夫に送った和歌
「霜がれに残りて我は八重むぐら
難波の浦の底のみくづに」
※葎(むぐら)・・・八重葎など荒地や野原に繁る雑草の総称。
荒木村重の返歌
「思ひきやあまのかけ橋ふみならし
難波の花も夢ならんとは」
枯れ朽ちる雑草に自分を重ねる妻。がんばってきたけれど
夢で終わりそうだと、なぐさめの言葉もでない無念の夫。
"いろは"も言葉につまります。
和歌参考:「現代語訳・信長公記(下)」
●妻:荒木ダシ("たし"との表記もあり)の"ダシ(Daxi)"は受洗名。
村重が信長に敵対したため京都で斬罪に処されます。
21歳だったそうです。
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2008.06.25
島津家久の和歌
事・しらま弓矢猛心の一すぢにみだの教も二つあらじな
君・きりとなり煙と消えし鳥部野の草葉もしげる露涙かな
能・のちの世をてらすまことの燈火に向はば法の花も開けむ
致・ちりつくす花の梢の杜鵑しのぶにたへぬ鳴く音ならまし
其・こけの下とふも恨めしあはれ世にいつつのなかは夢か現か
身・しら雲のはるる真如の月や日にめぐりて絶えぬ光とを知れ
●島津家久
【生没】天正6(1578)~寛永15年(1638)
義弘の第三子。薩摩藩初代藩主。
(義弘の弟とは別人)
寵臣の死に際して詠まれたものだそうです。
「事君能致其身」という古語を歌の上に配して6首
あります。
(西藩野史巻之十三)
「事君能致其身」は孔子の論語の初めの方に
出てくる文の途中にある語句。
”君に仕えてはよくその身をささげる”
という意味だそうです。
「君に事(つか)えて能(よ)く其の身を致(いたし)」
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2008.03.28
織田長益の和歌
「大原やをしほの山の松の葉の
ちりうせぬ世の花と祈らむ」
●織田長益
【生没】天文16(1547)~元和7年(1621)
織田長益(有楽斉如庵)武将・茶人。
信長の弟で、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え
関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って戦後大和
三万石の大名となりました。
(現在江戸屋敷の跡が有楽町と名付けられています)
晩年は京都で茶事に余生を送って没。

"いろは"の素人私見ですが、
「しほ」を塩と解釈すれば塩は白いので大原の
雪景色を想像できますし、(「を」は接頭語?)
(ちょっと無理がありますか・・・)
「皺(しぼ)=しわ」と解釈すれば大原の山波も
思い浮かびます。
古語辞典で「をし(惜し)」のほうを見ますと
物ごとの推移、消滅、都の荒れ、ひととの別れなどに
対してどうしようもないという感情を表すそうで、
そうした思いを「ちりうせぬ世」に、
大原の情景と何か掛けているのかもしれません。
全く違うかもしれませんが。すいません・・・。
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2008.02.29
豊臣秀長の和歌
「かけて今日みゆきを松の藤浪の
ゆかりうれしき花の色かな」
●豊臣秀長
【生没】天文9(1540)~天正19年(1591)
聚楽第行幸記より。聚楽第行幸時の歌会
(天正16年4月16日に開催)での和歌。
お題は「寄松祝」です。
藤浪の言葉を調べると「藤の花が波のようにゆれる様」
という意味の他に「藤原氏の系統という称」としても
使われるそうです。兄:秀吉が関白就任時に藤原姓を
称していたことから、弟の秀長も藤原姓を称することへの
感慨深さや喜び、素直さが感じられると思いました。
(※兄:秀吉が藤原姓を称したのは
太政大臣の頃という異説もあります)
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2006.10.31
安宅冬康の和歌
「うたふ夜の暁ふかく聲ふけて
神代ながらの鈴の音かな」
●安宅冬康
【生没】永禄4(1561)~寛永2年(1625)
暁は現在ではやや明るくなってからを指しますが、
古くは夜を「宵」「夜中」「暁」と3つに分けて
いたことから、暗いうちから夜が明けようとする
時間帯までを指すそうです。
神代は記紀神話で「天地開闢(かいびゃく)」から
「うがやふきあえずのみこと)」までの
(↑漢字が入力できませんでした・・・。)
神武天皇以前の神々の時代のこと。
深夜に神楽を鑑賞していたようです。
神秘的なおももちが伝わってきますね。
(後水尾院御選集に掲載されていたらしいです。)
安宅冬康は三好元長の三男(三好長慶の弟)。
淡路の土豪で安宅氏を継ぎ、淡路水軍を統率しました。
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2005.11.25
吉川広家の和歌
「玉椿かげに八千代をまつが枝は
花櫻木の庭の閑けさ」
●吉川広家
【生没】永禄4(1561)~寛永2年(1625)
吉川家文書之二より。
いつごろ詠まれたかは不明です。
わかるような、わからないような、
「まつ」と櫻の「サク」が掛詞になっている
ような・・・"いろは"には難しい和歌です。
(すいません)
静かな庭の光景に何か奥深さを感じました。
広家は吉川元春の三男。父の尼子勝久討伐で初陣。
兄・元長の死により家督を継ぎました。関が原の
戦いの後、初代岩国藩主となり、65歳の時
隠居所で亡くなりました。
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2005.11.20
井伊直政の和歌
「たちそふる千代の緑の色ふかき
松の齢を君もへぬべし」
●井伊直政
【生没】永禄4(1561)~慶長7年(1602)
聚楽第行幸記より。お題は「寄松祝」です。
以前にも聚楽第行幸の際の和歌を紹介していますが、
皆と同じように無難な和歌だと思います。
個性はなかなかわかりにくいですね~。

直政は徳川家康の家臣。武田家の旧臣を
配下に加え赤備えで有名です。天正18年
には上野箕輪城12万石。関ヶ原の戦いでは
島津勢を追撃し、島津豊久を討ち取りました。
慶長5年には近江佐和山18万石。関ヶ原の
戦傷がもとで死去しました。
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2005.11.18
毛利隆元の和歌
「幾年とかぎりはあらじ春ごとに
ながめ絶えせぬ花盛りかな」
●毛利隆元
【生没】大永3(1523)~永禄6年(1563)
武林拾葉續輯より「寄花祝言」。
いつ詠まれたかは不明です。春の日に隆元は
何のお花をみていたのでしょう?
「幾年」と使用いるところから、
隆元にとってこれからも眺めるであろう、
これまでも何度も訪れている、そんな思い入れの
ある場所で詠まれたものかもしれないですね。

隆元は毛利元就の長男。家督を継ぎ父と共に
中国経略に従い、備中・長門・周防の守護となりますが、
尼子征伐の途中、41歳で急死しました。
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2005.10.25
小野のお通の和歌
「あかざりし花に心を残しつつ
わが身は宿にかへりぬるかな」
●小野のお通
【生没】生没年不詳
醍醐の花見の際に読まれたものだそうです。
小野のお通は女流文人。真田太平記にも登場して
印象的です。美濃の住人でのちに高台院(秀吉の正室)
に仕え重用されました。また千姫の大阪入城の介助など
礼式にも精通していたそうです。
お通の履歴には、織田信長の侍女、豊臣秀次の臣、
塩川志摩守の妻など諸説ありはっきりしないそうです。
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2005.10.21
武田信虎の和歌
「帰り来るならひなき世の秋風に
うらやまれてやよするあた浪」
●武田信虎
【生没】明応3(1494)~天正2年(1574)
平瀬家蔵短冊手鑑より。「奉備春翁宗信禪定門」
と題があるそうです。いつごろ詠まれたものかは不明です。
「あた」は「仇・敵・賊」で敵対する者の意もあります。
「新しい」という意味ともかけているのかも・・・。
人生の晩年に若々しい次世代の勢力(ひょっとしたら信玄?)
をうらやみつつ詠んだのかもしれません。

武田信虎は甲斐の守護。領国をほぼ統一し周辺の
今川氏親や北条氏綱と対戦します。天文10年(1541)に、
嫡子晴信(信玄)とも対立して今川義元のところへ追放され
各地を流浪したのち信濃で病没しました。
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2005.10.13
佐久間信盛の和歌
「みし秋の草葉は霜に枯れはてて
眺めにつらき野べの色かな」
●佐久間信盛
【生没】?~天正10年(1582)
多賀博蔵短冊より。「冬野」と題があるそうです。
いつごろ詠まれたものかは不明です。剃髪後の
心境かもしれないですね。
佐久間信盛は織田信秀・信長の二代に仕え、長篠の
合戦や越前朝倉攻め、伊勢長島一揆など戦功をたてました。
しかし、石山本願寺攻めの不手際によって追放され
剃髪して高野山に入り、熊野で亡くなりました。
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2005.10.10
徳川家康の和歌
「ころは秋ころは夕ぐれ身はひとつ
何に落葉のとまるべきかは」
●徳川家康
【生没】天文11年(1542)~元和2年(1616)
「富士之煙」より。長篠の合戦の頃に詠まれたと
注意書きがあるそうです。とても心細さが伝わって
きますね。この頃は自分が江戸幕府を開くことに
なることはまだ想像しがたかったと思います。
若い頃の家康が垣間見えるような和歌ですね。

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2005.09.25
毛利輝元の和歌
「君が代の名も高してふ秋の月
幾年々の光そふらむ」
●毛利輝元
【生没】天文22年(1553)~寛永2年(1625)
輝元公上洛日記より。小早川隆景や吉川広家を伴って
天正16年に上洛した際に聚楽第での歌会で詠んだもの
だそうです。特に深い意味はなさそうですね。

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2005.09.20
小早川隆景の和歌
「月はなほすみこそまされ軒はあれて
ひまもる露のふるさとの暮」
●小早川隆景
【生没】天文2年(1533)~慶長2年(1597)
眺望集より「故郷秋夕」。月はどんどん澄んで美しくなるのに、
軒は荒れて露も漏れる古里の夕暮れだ、といった感じでしょうか。
月の美しさに対していっそうさびれた感じが寂しいですね。
いつごろ詠まれたものかがわからないのですが、故郷の秋夕と
いうことですので本家毛利家のことを言っているような
気もします。天下はかがやくばかりに統一されつつあるのに、
毛利家は秋の夕暮れのようにさびれてきてしまった・・・。
強引かなぁ・・・。
隆景は毛利元就の三男。安芸国小早川家の養子と
なり兄・吉川元春とともに父元就を助け、甥の輝元を輔佐
しました。四国平定には元春とともに伊予を攻略し、
伊予35万石を与えられます。豊臣五大老の一人にも数えられます。
家督を秀吉の猶子秀秋に譲り、備後三原城に隠居して、
慶長2年に没しました。享年65歳。
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2005.09.17
京極高次の和歌
「二葉より庭に小松を移し植ゑて
末の千とせのしるく見えけり」
●京極高次
【生没】永禄6年(1563)~慶長14年(1609)
天正16年聚楽第行幸記。題は「寄松祝に詠む和歌」。
直訳すると二葉の小松を庭に移植して、
千年の歳月も見届けることが出来るだろう、という感じで
しょうか。(千とせ=千年(千歳))お祝い用の和歌ですが、
必死で京極家の血筋を残した高次とも重なって感じて
しまうのは"いろは"だけでしょうか。
幼いころ織田信長のもとに人質に出されていた高次は
浅井家滅亡後信長に仕えて5千石を与えられました。
信長が本能寺で倒れると明智光秀に味方して秀吉の所領
長浜を攻めましたが、光秀が敗死すると、越前の柴田勝家の
もとに逃亡。しかしその勝家も秀吉に敗れたので妹婿の
若狭・武田元明のところへ走ります。しかしその元明も
秀吉に滅ぼされてしまいます。ついに逃げ場を失った高次は
元明の妻だった妹の竜子を秀吉の側室にいれて危うく命を
助けられ近江高島2千5百石を与えられました。
その後は順調に加増され大津6万石を領有。
名門京極家の再興を成しとげました。
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2005.06.14
島津貴久の和歌
「つくづくと思ふに少し慰むは
乱れぬ人のをはりなりけり」
●島津貴久
【生没】永正11年(1514)~元亀2年(1571)
貴久は先日辞世を紹介した忠良の子。
この和歌は父の訃報を馬越城で聞いた時の
ものだそうです(西藩野史巻之十)。
これでやっと父はゆっくりやすめるのだ・・・
という心境でしょうか・・・。
親子ならではの情が感じられるように思います。

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2005.06.10
島津忠良の辞世
「急ぐなよ又とどまるな吾が心
定まる風の吹かぬかぎりは」
●島津忠良
【生没】明応元年(1492)~永禄11年(1568)
77歳で病没する時の辞世(西藩野史巻之十)。
冷静というのでしょうか。
「急がず、とどまらず・・・」辞世をもってしても
何かを教えてくれているようです。
入道して「日新斎」と号し、こちらの方が有名かも
しれません。儒教思想にもとづいた「いろは歌」で
家臣団の育成をはかり、後の薩摩藩の士風にも
大きな影響を残しました。合戦後には六地蔵塔を
建立し、敵味方の別なく戦没者を厚く供養し
博愛慈悲の心の持ち主でもありました。
「いろは歌」についてはこちらのページが
オススメで~す。
「島津日新公の"いろは歌"」

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2005.05.30
足利義輝の辞世
「さみだれは露か涙かほととぎす
吾が名をあげよ 雲の上まで」
●足利義輝
【生没】天文5年(1536)~永禄8年(1565)
足利義輝は室町幕府十三代将軍。将軍権威の回復に
つとめましたが、永禄8年5月19日に松永久秀や
三好義継らに二条御所を攻められ自害。30歳でした。
この時の辞世と伝わっています。(続応仁後記巻八)
「さみだれ(五月雨)」は陰暦5月頃に降る長雨。梅雨です。
「ほととぎす」は「しでのたおさ(死出の田長)」とも異称
され、死出の山から来て鳴くといわれていたそうです。
また「たまむかえ(魂迎え)鳥」とも呼ばれるそうですよ。
「ほととぎす」が辞世に使用される理由がわかったような
気がしました。
「ほととぎす」は柴田勝家も辞世に使用しています。
柴田勝家の辞世
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2005.05.16
長尾為景の和歌
「青海のありとは知らで 苗代の
水の底にも蛙なくなり」
●長尾為景
【生没】生年不詳~天文5年(1536)
(越後軍記巻之一) 強将としても有名ですが、
常々和歌を好んだそうです。
「苗代の水の底」を越後に、「青海」を天下に
みたてているとしたら、天下統一への野望も
考えの中にあったのかもしれないですね。
"いろは"はそんな印象を持ちました。

長尾為景は越後守護代能景の子。
(上杉謙信の父といったほうが有名)
関東管領上杉顕定をも敗死させて、越後の国政を
実質的に掌握しました。その後主君である守護上杉定実
とも不和が表面化し、家督を長子晴景に譲り、病没。
天文5年の栴檀野(せんだんの)の戦いで戦死とも
伝わっています。
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2005.04.18
武田勝頼室の辞世
「黒髪の乱れたる世ぞ はてしなき
思ひに消ゆる 露の玉の緒」
●武田勝頼室(北条夫人)
【生没】永禄6年(1567)~天正10年(1582)
先日のNHK「その時歴史が動いた(武田家滅亡の謎)」
でも放送された北条夫人の辞世。天目山下の田野にて
死する直前に小田原の北条家へ届けられた文の中に
あった辞世だそうです。(甲乱記下)
この少し前の3月3日には新府城にて
「春霞たちいづれども 幾たびか
跡をかへしてみか月の空」
と詠んでいます(理慶尼の記)。こちらの方が、
なんとなく勝頼の辞世にそった感じがしますね。
まだ時間的な余裕も少しあったのかもしれません。
冒頭の辞世はまさに「消ゆる」切迫感があって
悲しいですね。
北条夫人は北条氏康の娘。14歳の時、勝頼の
継室となりました。実子はありませんでしたが、
武田家滅亡の折、勝頼に殉じました。
一緒に殉じた子の「信勝」の母は勝頼の前室・徳姫
(織田信長の姪、産後まもなく死亡)です。
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2005.03.31
北条氏政・氏照の辞世
「雨雲のおほへる月も胸の霧も
拂ひにけりな秋の夕風」 :氏政
「天地の清きなかより生れ来て
もとのすみかに帰るべらなり」:氏照
天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めにより敗れた
北条氏政(4代目)、氏照兄弟は切腹となりました。
この時の辞世と伝わっています。
"いろは"には、氏政の辞世には未練があり、納得の
いかない気持ちが、氏照の辞世には、すでに死を
受け入れ澄んだ心境を感じます。
小田原城は籠城戦体制でしたので氏政には
戦っていたら・・・という気持ちもあった
かもしれないですね。
53歳と51歳の兄弟でした。
5代目の北条氏直は高野山へ流されました。
(関八州古戦録
「清」「帰」は旧漢字でしたが変換できなかった
ため当用漢字に直して掲載しました。)
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2005.03.18
斉藤利三の辞世
「消えてゆく露のいのちの短夜の
あすをも待たず日の岡の山」
●斉藤利三【生没】天文3年(1534)~天正10年(1582)
斉藤利三ははじめ、斉藤義竜に仕え、次に稲葉一鉄、
のちに織田信長に仕え、その後、叔父である明智光秀に
仕え本能寺の変をむかえます。山崎の合戦での敗走時に
近江の堅田で捉えられ、京都で処刑されます。
太閤記に処刑場所について「日の岡に連れ行きける」と
あることから、「日の岡」という地名と露の「干る」を
かけているそうです。
斉藤利三は徳川三代将軍家光の乳母「春日局」の父でも
あります。
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2005.03.04
島津義久の和歌
(南)「なく蟲の聲は霜をも待ちやらで
あやなく枯るる草の原かな」
(無)「むらさきの雲にかくれし月影は
西にや晴るる行方なるらむ」
(阿)「あめはただ空にしられぬ■あれや
うき折々の袖にかかりて」
(彌)「みし夢の名残はかなき寝覚めかな
枕に鐘の聲ばかりして」
(陀)「たづねても入らましものを山寺の
ときおく法の深き心を」
(佛)「ふでをみぎり弓を左に弄(もてあそ)ぶ
人の心や名に残らまし」
●島津義久【生没】天文2年(1533)~慶長16年(1611)
島津義久は島津氏第16代当主。この南無阿弥陀仏の
和歌は文禄の役の陣中で病死した甥の島津久保
(弟・義弘の二男)の追善にこの6首を詠じたと
伝わっています。
■印の部分は不明な漢字です。旧漢字のようで
現在の辞書にはありませんでした。
「習」という字に酷似しています。
「翟」という字の上のつくりに下が「白」の字です。
「翟」(てき)なら意味も通じそうなのですが、「習」
だと、よくわかりません。
「翟」・・・中国の佾舞(いつぶ)で文舞の舞人が
右手に持って舞う具。柄の上の竜頭の口に雉の
羽をさしてある。
はっきりしませんが、お許し下さいませ。
「南無阿弥陀仏」を潜ませているところを
ご紹介したかったので、掲載しました。
ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授いただけ
ますと幸いです。
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2005.02.05
堀秀政の和歌
「霜ののちなほあらはれむ松が枝の
千代の緑やけふ茂るらむ」
●堀秀政【生没】天文22年(1553)~天正18年(1590)
聚楽第行幸記より。和歌のお題は「詠寄松祝和歌」。
後陽成天皇の聚楽第への行幸は女房衆、宮、摂家、
公家衆などを引き連れ、六千人の警護と雅楽などを
演奏する怜人たちをはじめ秀吉自身も行列に参加
しました。5日間の滞在中に開かれたと思われる
松祝はどんなものだったのでしょう。植樹祭のような
ものだったかのかしら?「霜」という言葉が使われて
いますが、行幸は天正16年の4月でした。
常緑樹の松の緑の茂みにかけて、天皇と秀吉の
天下の繁栄を願って詠まれたものでしょうね。
堀秀政は秀重の子。はじめは斉藤氏に仕えますが、
のち木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕え、まもなく織田信長
の直臣に抜擢されました。天正6年頃長浜城主2万1千石。
荒木村重討伐や武田攻略に従軍。秀吉の中国攻めの
援兵中に本能寺の変があり、そのまま秀吉に属して
山崎の戦では先鋒をつとめます。賤ヶ岳の戦い後は
近江佐和山9万石。小牧・長久手、紀伊根来攻め、
中国征伐後には越前北庄18万850石に移封され、
村上義明、溝口秀勝を与力大名としてつけられました。
九州征伐にも従軍。次の小田原征伐の陣中で病没
しました。38歳。
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2005.01.19
里見義弘の和歌
「梓弓おして向はば物部の
いる一すぢも何か引くべき」
●里見義弘【生没】享禄3年(1530)~天正6年(1578)
「梓弓(あずさゆみ)」は梓の木で作った丸木の弓。
枕詞で「引く」にかかります。しかし"いろは"には
難しい和歌です。よくわかりません。すいません。
「物部」は大和朝廷で軍事・警察・裁判を担当する役人や
律令制では刑部省囚獄司・衛門府・東西市司に属し、
刑罰を担当した下級官人を表すようですが、この和歌では
誰のことをいっているのでしょう?「おして」「引く」と
いう表現は合戦のことでもあるようですし・・・。謎です。
(詠まれた年代も不明です。)
里見義弘は義堯(よしたか)の子。上総佐貫城に拠り、
上杉謙信と結んで北条氏と対立しました。相模三浦郡を攻略。
永禄7年には太田資高、資正と結び下総・国分台で北条氏康と
戦いますが、北條綱成の率いる北条勢に敗れました
(第2次国府台合戦)。
敗戦後上総に逃れ勢力を回復しますが、天正6年に死去。
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2005.01.12
長束正家の和歌
「宮島の春の景色は君が代の
風ふかぬとや花も知るらむ」
●長束正家【生没】?~慶長5年(1600)
豊臣秀吉が九州征伐の際に厳島に立ち寄り座主水精寺
にて興行されたときに詠まれたといわれています。
「宮島のこの素晴らしい春の景色はあなた様が治めて平和に
なったので花さえも風におびえることがないと知っています」
といった感じでしょうか。美しい宮島の景色と春ののどかな
感じも伝わってきますが、やはり秀吉への気遣いが
前面にでてますよね。秀吉の喜ぶ顔が見えるようです。
五奉行の一人らしい和歌だと思います。
長束正家は近江水口城主。豊臣秀吉の五奉行の一人で財政を
担当しました。はじめは丹羽長秀・長重に仕えていましたが
その後秀吉に仕え、小田原征伐での兵糧輸送や、太閤検地で
活躍します。関が原の合戦では西軍に属し、安濃津城攻撃後、
南宮山に布陣じますが、敗北後捕虜となり近江桜井谷で
自刃しました。
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2005.01.09
浅井長政の和歌
「けふもまた尋ね入りなむ山里の
花に一夜の宿はなくとも」
●浅井長政【生没】天文14年(1545)~天正元年(1573)
何かの歌会で詠まれたのか、辞世なのかは不明です。
直訳すると自分を花に置き換えて、泊まるところが
なくても今日も山里を訪ね歩く・・・といったところで
しょうか。落ち着くところが常にない状態で迷路を
彷徨っているような印象ですね。織田信長と浅倉義景の
間で苦しんだ戦国武将ならではの安息のない日常の
叫びにも聞こえるのは"いろは"だけでしょうか。
浅井長政は近江小谷城主久政の子。織田信長の妹お市を
正室に迎えて信長と同盟し六角氏の内乱に乗じて
六角義賢父子を敗走させ、朽木元綱も降し、南近江を経略
しました。しかし信長と足利義昭の仲が険悪になると
朝倉義景に与して信長に離反、更に六角義賢とも結びます。
姉川の戦いにおいて朝倉・浅井2万と織田・徳川3万の
連合軍が激戦を展開しますが敗戦。
長政は再起不能となり小谷城に火を放って自刃しました。
享年29歳。
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2004.12.24
島津義弘の辞世
「春秋の花も紅葉もとどまらず
人も空しき関路なりけり」
●島津義弘【生没】天文4年(1535)~元和5年(1619)
関路は関が原の合戦からの退却路をあらわしていると
いわれます。花や紅葉もとどまることを知らずに
散ってしまう、自分も空しく関が原で散ってしまったと
いうことなのでしょうか?関が原の合戦後に生きた
19年間の心境は枯れ木状態だったのかもしれません。
人は夢や希望、目的を失ってしまうと本当に活気が
なくなってしまいますよね。義弘ほどの武将が
そのような状態になってしまうのはもったいないですね。
「負ける」という事実の重さを感じます。

島津氏は大友・少弐氏とともに九州三名家の一つに
数えられ、平安末期より近世まで連綿と700年にも
及んだ数少ない守護大名でした。義弘はその18代目
にあたり貴久の二男として薩摩の伊作城に生まれます。
兄義久から家督を譲られると肥後八代城主となりますが、
九州制圧を目前に秀吉の九州進出でその野望も
消え去りました。関ヶ原の戦いでは心ならずも西軍と
なり、戦史に残る敵中突破の大脱走を敢行。
子の忠恒に家督を譲って恭順の意をしめし、
かろうじて本領安堵されました。
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2004.12.23
尼子経久の和歌
「はし鷹のみよりの翅身にそへて
なお雪拂ふうたのみ狩場」
●尼子経久【生没】長禄2年(1458)~天文10年(1541)
朗照集より。「はし鷹」は鷹の一種。色彩など
オオタカに似ているが小さく、主に小鳥を餌とし鷹狩に
用いたそうです。枕詞でもあります。「みより」は
鷹の右方。鷹狩で左手に据えた時、わが身に近くなる方
だから、こうゆうそうです。
(「翅」=つばさ、「拂」=はらう)
「鷹狩」と題名があります。雪の中で「鷹狩」をした
のか、歌会のお題で「鷹狩」を詠んだのかは不明です。
鷹狩は冬の行事、ちょうど今頃の時期に戦国武将達は
鷹狩を楽しんだのかもしれませんね。

経久は出雲富田城を中心とする戦国大名。父・清貞
よりも激しい下剋上的な姿勢により富田城を追放され
ますが2年後には富田城へ再入場。
(奪回したとも、侘びを入れたともいわれています)
大内氏との領土争いのさなか毛利元就が経久の麾下に
参じたことは尼子家を優位にし、最盛期を迎えます。
しかし、嫡子政久を失い、毛利家の家督相続に介入して
元就を大内方に走らせ、更に三男興久が叛乱を起こす
ことなどが続き次第に守勢になってゆきます。
天文6年ごろ嫡孫詮久(のち晴久)にほぼ全権を移譲
しますが元就の本拠地安芸吉田郡山城を攻撃して大敗。
その10ヶ月後経久は城内で没しました。享年84歳。
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2004.12.22
陶晴賢の辞世
「なにを惜しみなにを恨まんもとよりも
このありさまの定まれる身に」
●陶晴賢【生没】大永元年(1521)~弘治元年(1555)
こうなることは最初から定まっていた運命なのだから、
惜しんだり、恨んだりすることはない・・・。
でも、悔しかったでしょうね。上司に恵まれない不幸は
現在でも同じですが、自分の信じた道に進んで行動できた
結果なので、潔くもなれたのかもしれません。
下克上をなしとげられなかった戦国武将の一人ですねぇ。
晴賢(はるかた)は周防守護代興房の二男。19歳で
家督を継ぎました。文事にはしる主君大内義隆を排斥し、
大友宗麟の弟晴英を迎えて主としましたが津和野の
吉見正頼や毛利元就がこれに叛きます。
弘治元年に厳島において元就との戦い敗れて自刃。
享年35歳でした。若いですね。
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2004.12.21
前田利家の和歌
「ちらさじと思う櫻の花の枝
よしのの里は風も吹かじな」
●前田利家【生没】天文7年(1538)~慶長4年(1599)
文禄3年の吉野山の花見の時の和歌です。
武勇の利家のイメージとは違うかもしれませんが、
普段とは違い桜の花に見入っている利家の後ろ姿を
想像すると、それはそれでまたカッコイイ気がします。
「吹かじな」をどう理解してよいかわからなく、
桜を散らさないように風も遠慮している・・・といった
感じでいいのかなぁ?

利家は尾張荒子城主利昌の四男。14歳で信長に
仕え近習となりました。信長の同朋衆・十阿弥を勝手に
成敗したことにより、森部の戦いで武功をあげるまで
出仕をとどめられましたが、のちに赤母衣衆の一員に
列せられ各地に転戦します。信長の命により兄利久の
家督を継ぎ、摂津本願寺門徒との戦いに功を立て近江
長浜城一万石に封じられました。長篠の戦後は佐々成政、
不破光治とともに柴田勝家の与力となり越前府中に
3万3千石を領します。次に利家は能登一国七尾城
23万3千石を与えられついに国持ち大名となります。
その後秀吉に臣属し能登の他に石川・河北二郡を与えられ
尾山城(金沢城)に移りました。秀吉没後は五大老のひとり
として豊臣政権を安定させることに腐心しましたが、
秀吉の死からわずか8ヶ月たらずで大阪で病没しました。
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2004.12.20
上杉謙信の辞世
「極楽も地獄もさきは有明の
月の心にかかる雲なし」
●上杉謙信【生没】享禄3年(1530)~天正6年(1578)
謙信家記より。「心にかかる雲なし」まさに
そんな生き方をした戦国武将ですよね。
本人も自分の生き方には後悔がなかったと思います。
この辞世のほかに漢詩
「四十九年 一睡夢
一期栄華 一盃酒」
も辞世といわれていますが、こちらは七尾城攻略中の
陣中で詠まれたとか、後世の仮託ともいわれるなど
異説が多くあります。でも漢詩もいいですねぇ。

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2004.12.19
日野富子の和歌
「世を祈る心を神のうけぬとも
この言の葉にさらにこそ知れ」
●日野富子【生没】永享12年(1440)~明応5年(1496)
世の平和を願う私の心を神が受け付けてくださら
ないけれど、この歌で改めて知っていただける
ことでしょう・・・といったかんじでしょうか。
応仁の乱の主因をつくるなど悪女としてのイメージが
強い富子がこのように詠っていたとは少し意外でした。
この和歌は「世を祈る君か心のまことにや内外(うちご)
の神も恵そふらむ」に対する返歌だそうです。
はやりちょっとたしなめられてもいたのですね。
富子は室町8代将軍足利義政の室。
9代将軍足利義尚の母。はじめ男子がいなかったので、
出家していた義政の弟を義視と名を改め還俗させて継嗣と
しました。しかし富子に実子義尚がうまれたため将軍継嗣を
めぐる富子と義視との間に確執が生じます。
富子は山名持豊(宗全)を頼り、義視は細川勝元を頼りました。
さらに畠山氏・斯波氏の家督争いも絡んで応仁の乱に
発展してゆきます。義尚は9代将軍に就任しましたが、
当時9歳であったため遊興にはしる義政にかわり富子が
直接政治に関与するようになりました。又、政治だけでなく
さまざまな手段を用いて莫大な財貨を蓄積し、義尚の後見と
して絶大な権勢を振るいました。義尚、義政があいついで
病没すると出家して妙善院と号しますが11代将軍義澄の
ころまで権勢を振るい続け57歳で没します。
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2004.12.18
細川勝元の和歌
「大海の限りも知らぬ浪の上に
あはれはかなく舟のゆく見ゆ」
●細川勝元【生没】永享2年(1430)~文明5年(1473)
昨日は応仁の乱の西軍大将:山名宗全だったので、
今日は東軍大将:細川勝元にしてみました。
武林拾葉より。限りのない大海とはなかなか決着の
つかない応仁の乱の事を言っているのかもしれないですね。
人生そのものかも・・・。東西両大将二人とも
共通して物悲しさを詠っているところに大将共通の
孤独感のようなものがあるのかなぁ?
勝元は室町幕府官僚。摂津・丹波・讃岐・阿波の守護。
はじめ山名宗全(持豊)と結び、畠山氏に対抗していま
したが、足利将軍家や畠山氏、斯波氏の継嗣争いに関与し、
宗全と対立するようになり、応仁の乱に発展。
東軍の総大将として戦いますが勝敗が決まらないまま
西軍総大将であった宗全が病死。勝元もそのわずか
2ヵ月後に病没してしまいました。

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2004.12.17
山名宗全の和歌
「星合の頼む夕べを待ちすぎて
床のひとりゐ夜半ぞふけゆく」
●山名宗全【生没】応永11年(1404)~文明5年(1473)
「星合い」は陰暦7月7日の夜、牽牛・織女の2星が
相会うこと、七夕ですね。夜中になるまで一人で星を
眺めていたのでしょうか。ちょっとロマンチックな人
だったのかも・・・。戦国武将の和歌にはなかなか恋歌
をみつけることができませんが、宗全の心に思う人が
あったのかもしれないですね。応仁の乱の「西軍大将」
のイメージとはまた一味違った和歌です。
宗全は剃髪してからの号で、本名持豊(もちとよ)。
嘉吉の乱で赤松氏を打ちこの功により、播磨、石見の
守護職を与えられました。一族としては、備後・安芸・
伊賀・備前・美作も得て、山名氏の勢力を回復。
その後赤松氏再興に助力した細川勝元と対立しだし、
足利将軍家や畠山氏、斯波氏の継嗣争いがからんで、
応仁の乱に発展。戦乱は地方へ拡大してゆく中、
西軍の大将をつとめましたが勝敗が決まらないまま
病没してしまいました。
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2004.12.16
宇喜多秀家の辞世
「涙のみ流れて末は杭瀬川
水の泡とや消えむとすらむ」
●宇喜多秀家【生没】元亀3年(1572)~明暦元年(1655)
本人の作でなく後世の人がつくったともいわれています。
杭瀬川は関が原の合戦の前哨戦が行われた岐阜県大垣市の
西を流れる揖斐川の支流です。
「杭」と「悔い」をかけているのでしょうか?
悔いているとしたら、小早川秀秋の裏切りを食い止め
られなかったこと?遠い八丈島での配流生活が50年もの
長きにわたり、関が原で大きく人生が変わってしまった
武将の一人ですね。

秀家は岡山城の父が城中に没すると弱冠10歳で家督を継ぎ、
秀吉の備中高松城攻めの功で備中東半と備前・美作50万石
を与えられました。五大老のひとりでもあります。
関ヶ原の戦いでは西軍に参加しましたが大敗に終わり、
島津義弘を頼って薩摩に赴き3年間蟄居します。
その後死罪は免れ八丈島遠島に処せられました。
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2004.12.15
武田信玄の和歌
「人は城人は石垣人は堀
なさけは味方あだは敵なり」
●武田信玄【生没】大永元年(1521)~天正元年(1573)
人を大切にする信玄流人間管理の基本ともいうべき和歌。
和歌というより名言といってもよいかもしれません。
家臣がいざというときに死力を尽くす士気を保つ為に
普段から情をかけておく・・・。
本拠である甲州に大きなお城を築かなかった信玄には、
まさにピッタリなのですが、一方で戦場の一人一人が
城であり、堀である「帰る城はない・・・」という厳しい
言葉と解釈される場合もあります。
優しいだけでは生き残れない戦国時代の「情」と「非情」
ですね。"いろは"が大好きな和歌のひとつです。
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2004.12.14
武田勝頼の辞世
「おぼろなる月もほのかに雲霞
晴れて行くへの西の山の端」
●武田勝頼【生没】天文15年(1546)~天正10年(1582)
武田家滅亡のうた・・・といってもよいでしょうか。
悲しいですね。「西」には仏教用語の「西方浄土」の
意味も込められているような気がします。
「おぼろ月」や「霞」にも何か勝頼のスッキリしない
心情や無念さが染み込んでいるようです。
それでも晴れて浄土へ向かおうという下の句に
勝頼のこの時の潔さがあらわれているように
"いろは"は思います。
武田勝頼は天正元年に父、信玄が病死すると武田家を
継ぎました。しかし跡目相続はスムーズではなく、
旧勢力と新勢力の間に争いもおきます。そんな状況下、
長篠の合戦で多数の将兵を失い領国維持が困難となります。
上杉謙信没後の越後上杉氏の家督争いで景勝を支持した為、
北條氏政とも対立し、東西を強敵に囲まれました。
甲府の躑躅が崎館を捨て、韮崎に新府城を築きますが、
完成前に木曽氏が謀反を起こし、親族の穴山信君にも
反逆され、両者の手引きで織田・徳川軍が甲斐に攻め入り、
ついに天目山下の田野で一族ともに自害しました。
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2004.12.13
秋田実季の和歌
「我が庵は道みえぬまで茂りぬる
すすきの絲の心ぼそしや」
●秋田実季【生没】天正4年(1567)~万治2年(1659)
すすきの細さと心細さをかけているようですね。
秋田実季(さねすえ)は出羽土崎湊城主。天正18年に
豊臣秀吉から檜山・秋田郡のうち5万2千石の安堵を
得て同19年より秋田氏を称します。慶長7年には
所領を削られて常陸宍戸へ5万石を持って転封。
伊勢朝熊に蟄居後は凍蚓(とういん)と号しました。
享年84歳。かつての城主が、草だらけの庵に住む身と
なった心細さが秋の風情とともに伝わってきますね。
寂しすぎる・・・。
投稿:by いろは 2004 12 13 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
2004.12.12
今川義元の和歌
「夏山の茂みふきわけもる月は
風のひまこそ曇りなりけれ」
●今川義元【生没】永正16年(1519)~永禄3年(1560)
続眺望集より。夏山の茂みに月明かりが入ってくるが
風がやんでしまうと茂みにはばまれて曇ってしまう
のだなぁ、といった感じでしょうか。
"いろは"には月明かりが風にゆれる草によってもれ隠れ
するのを見ながら「曇った、晴れた、曇った」と
大自然に見入っている姿が浮かんでしまいます。
余裕があったのか、油断であったか・・・。
この和歌が詠まれたのは永禄3年とのこと。。
同年5月19日に義元は桶狭間で信長軍に討たれました。
義元は氏親の三子。18歳の時兄氏輝が早世し家督を継
ぎました。今川・北条・武田と同盟をむすび東・北の憂いを
無くして西上しましたが桶狭間で織田信長の奇襲にあい
討死しました。
投稿:by いろは 2004 12 12 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
2004.12.11
筒井順慶の和歌
「筒井づつ筒井の底の清水かげ
むすぶ手多きけふのしののめ」
●筒井順慶【生没】天文18年(1549)~天正12年(1584)
「筒井づつ」は筒井にある丸い筒の井桁。
「筒井」は井戸の地上の部分を木・石・土管などで囲んだもの。
(本来は円形ですが広く方形のものをもいうそうです。)
「しののめ(東雲)」は①東の空がわずかに明るくなる頃。
②明け方に東の空にたなびく雲。
井戸をのぞくと底の清水にたくさんのてをつないだような
明け方の雲が映っているということなのかな?
う~む。"いろは"にはちょっと難しい和歌です。
筒井順慶は大和興福寺の官符宗徒(僧兵)筒井順昭の子。
順昭の代でほぼ大和全域を平定しましたたが順昭は順慶が
2歳の時に亡くなります。松永久秀に筒井城を追われて
興福寺で得度、陽瞬順慶と名乗りました。
その後織田信長に接近し、大和を与えられた。
山崎の合戦では秀吉に名器「井戸茶碗」を持参して領国の
安堵を得ます。謡曲、茶の湯にも優れた風流人でもあった
そうです。36歳で没。意外に若かったんですね。
投稿:by いろは 2004 12 11 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
2004.12.10
松の丸殿(京極龍子)の和歌
「打群れてみる人からの山櫻
よろづ代までと色にみえつつ」
松の丸殿【生没】?~寛永11年(1634)
豊臣秀吉の醍醐の花見シリーズ。(すいませんしつこくて)
今日は「松の丸殿」が詠んだといわれる和歌です。
「色」には物の情趣、風情といった意味があります。
松の丸殿の予言(?)どおり、醍醐寺の桜は現在でも
美しく名所となっていますよね。桜の木も成長して
当時よりは、もっと華やかになっているかと思います。
よろづ代まで私達も残してゆかなくては・・・
醍醐寺に行ったらお賽銭を奮発しなくては・・・
余談ですが、松の丸殿は淀殿と従姉妹の関係です。
しかし醍醐の花見では側室の権威争いからケンカを
してしまったエピソードが伝わっています。
やはりこの花見、楽しいものではなかったかも
しれませんね。
「帰りたくない」というような和歌を残している
他の側室もいます。
ねねの醍醐の花見の和歌
茶々(淀殿)の醍醐の花見の和歌
摩阿姫の醍醐の花見の和歌
三の丸殿の醍醐の花見の和歌
松の丸殿は京極高吉の女。はじめ若狭守護武田元明に嫁ぎ
ましたが、元明は本能寺の際に秀吉に殺されてしまいます。
このとき弟の京極高次も秀吉に敵対したので、実家京極家の
ためすすんで秀吉の側室となりました。伏見城の松の丸に
住んだので松の丸殿と呼ばれています。秀吉の死後は
髪をおろし、関が原の合戦後は京都の誓願寺に帰依して
秀吉の菩提を弔いました。
投稿:by いろは 2004 12 10 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
2004.12.09
三の丸殿(織田氏)の和歌
「山櫻袖に匂ひをうつしつつ
かへるさ惜しきけふの暮かな」
●三の丸殿【生没】不明
またもや豊臣秀吉の醍醐の花見シリーズ。
今日は「三の丸殿」が詠んだといわれる和歌です。
側室シリーズにもなってしまっています・・・。
咲き誇る山桜の香りを袖にうつして、帰るのが惜しい
今日の夕暮れだなぁ・・・。夕方まで楽しんでいたのですね。
特に深い意味もなさそうで、素直に帰りたくなかったの
でしょうね。読み比べるとそれぞれの側室の個性が
見えてきて楽しいかなぁと思い、もう少し続けようと
思います。
ねねの醍醐の花見の和歌
茶々(淀殿)の醍醐の花見の和歌
摩阿姫の醍醐の花見の和歌
三の丸殿は織田信長の娘として生まれ豊臣秀吉の側室と
なりました。伏見城の三の丸に住んだことから三の丸殿と
呼ばれました。
投稿:by いろは 2004 12 09 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック
2004.12.08
摩阿姫(加賀殿/前田氏)の和歌
「あかず見む幾春ごとに咲きそふる
深雪の山の花のさかりを」
●摩阿姫【生没】元亀3年(1572)~慶長10年(1605)
今週は豊臣秀吉の醍醐の花見シリーズと化しています。
今日は「摩阿姫」が詠んだといわれる和歌です。
「あかず」は「飽きない」の意。春がくるたびに
深雪山醍醐寺の桜を私はずっと飽きずに見ることだろう。
といった感じでしょうか・・・。この醍醐の花見の後に
摩阿姫は側室を辞していますので、この時には側室を
辞す決意はかたまっていたと思います。
来年からは誰と来るつもりだったのでしょう・・・。
そう考えると意味深な和歌に思えます。
お母さんの「まつ」とかな?
摩阿姫は前田利家の三女。天正10年の賤ヶ岳の戦いで
婚約者佐久間十蔵を失い、秀吉に望まれて側室となり
「加賀殿」と呼ばれます。しかし側室を嫌い慶長3年の
醍醐の花見のあとに側室を辞しています。
秀吉の死後には万里小路充房と結婚し利定を産みまし
たが離別。利定を連れて高岡に戻り病死しました。
投稿:by いろは 2004 12 08 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック
2004.12.07
ねね(禰々)の和歌
「ともなひて眺めにあかし深雪山
かへるさ惜しき花の面影」
●ねね【生没】天文18年(1549)~寛永元年(1624)
昨日にひきつづき慶長3年3月に行われた醍醐の花見、
今日は「ねね」が詠んだといわれる和歌です。
連れだってきた深雪山醍醐寺の眺めは見事な桜の花で
まぶしいくらいに明るく、帰るのが惜しいくらい・・・
といった感じでしょうか。淀殿と比べると素直な感じが
しますね。正室の地位にあるとはいえ、沢山の側室達と
一緒では、楽しめなかったのではないでしょうか?
"いろは"なら早く帰りたくなっちゃうと思います。
とはいえ、早く帰りたいとは和歌には詠めないですよね。
「ねね」は豊臣秀吉正室。浅野長勝養女。杉原定利の次女
として生まれ叔父浅野長勝の養女となりました。
14歳で当時26歳の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と結婚。
北政所と呼ばれ天正16年には従一位を賜わりました。
秀吉没後は落飾して高台院と号し、世継ぎの秀頼と生母淀殿
に大阪城を譲り京都三本木に移ります。関ヶ原の戦い時には
実家ともども徳川方に味方し高台寺と河田1万3千石を贈らました。
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2004.12.06
茶々(淀殿)の和歌
「花もまた君のためにと咲き出でて
世にならびなき春にあふらし」
●茶々【生没】永禄12年(1569)~元和2年(1615)
慶長3年3月に行われた醍醐の花見の時に
詠んだ和歌といわれています。
「君」は豊臣秀吉のことでしょうね。
本心かどうかは不明ですが、そつのない和歌だと思います。
やはり賢かったのかな。
茶々は浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に
生まれた豊臣秀吉の側室です。長政の死後、
新しく母・お市が嫁いだ柴田勝家も秀吉に攻められ、
父母を失います。仇敵秀吉に庇護されて数年後に側室となり
2人の男子を産みました。長男鶴松は夭折し、
次男秀頼が豊臣家を継ぎますが元和元年大阪夏の陣で
徳川家康に敗れ、秀頼とともに自刃しました。
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2004.12.05
細川忠興の和歌
「たち別れ松に名残はをしけれど
思い切戸の天の橋立」
●細川忠興【生没】永禄6年(1563)~正保2年(1645)
関ヶ原の合戦後に丹後から豊前に国替えとなり、
その移動中に犬の堂より天の橋立を見て詠んだそうです。
日本海側の海路をとるコースでしょうか?
本能寺の変の時には夫人ガラシャが明智光秀の娘で
あったことからいろいろ気苦労も多かったでしょうね。
そのガラシャも関が原の合戦直前に亡くし、
どんな思いで丹後を後にしたのでしょうか。
「名残」には様々な思いが詰まっているようです。
丹後12万余石から豊前39万9千石への移封ですので、
ここで思いを断ち切って、忙しくなる新しい領国経営へ
臨んだのかもしれません。
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2004.12.04
別所長治の辞世
「今はただ恨もあらずもろ人の
命に代る吾が身と思へば」
●別所長治【生没】永禄元年(1558)~天正8年(1580)
今は何の恨みの心もない。私の命で多くの人の命を
助けることができるのだから・・・。
別所長治は播磨三木城主。織田信長の中国政略に際し
抗戦して秀吉の大軍に三木城を囲まれました。
籠城は2年に及びましたが城兵の助命を条件に自刃。
23歳でした。「三木の干殺し」で有名な
この籠城戦では兵糧が不足し数千人が餓死したと
いわれています。はじめ三木城には7500余騎の
他に町人や農民も籠っていたといわれますから、
長治の自刃により助かった人はかなりの数になると
思います。長治も極限状態だったかと思います。
そんな状況の中、最後に自分ができることは人々の
命を助けることだったのでしょうね。
この辞世は精神力を振り絞って吐き出した、最後の
吐息が伝わってくるように"いろは"は思います。
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2004.12.03
黒田孝高の辞世
「思いおく言の葉なくてつひに行く
道は迷はでなるにまかせて」
●黒田孝高【生没】天文15年(1546)~慶長9年(1604)
剃髪した時の号「如水」や黒田官兵衛といった方が
有名かもしれません。思い残す言葉が見つからない
ままついに最後になった。死にゆく道は迷わないで
なるに任せてゆこう・・・。色々考えたり、悩んだりする
ことはもうしないで、心静かにゆきたい晩年の気持ちが
表れているように思います。参謀を務めるほどの孝高なら
カッコイイ辞世をつくることも可能だったと思いますが、
そんな辞世を考えることにも疲れてしまったようにも
思えるのは"いろは"だけでしょうか?
黒田孝高は姫路に生まれ、祖父重隆が播磨の
守護赤松氏の一族・小寺氏の養子となったため、
はじめは小寺氏を称しました。職高の代より
織田信長の傘下に属して中国征伐の羽柴秀吉に
協力。天正6年に荒木村重が信長に叛いた時は
説得に向かいますが、そのまま幽閉されてしまいます。
この間に足を悪くしたといわれています。
山崎の合戦、四国征伐にも参戦し秀吉の参謀として
手腕を発揮し、九州征伐では豊前に12万石を与えられ
中津川を居城としました。慶長9年山城伏見
(一説に筑前国博多)で死去。
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2004.12.02
織田信孝の辞世
「むかしより主をうつみの野間なれば
むくいを待てや羽柴筑前」
●織田信孝【生没】永禄元年(1558)~天正11年(1583)
信孝は織田信長の三男で、神戸具盛の養子となりました。
本能寺の変の時は秀吉とともに明智光秀を討ちますが、
その後対立して岐阜城で挙兵、兄の信雄の攻撃にあい、
尾張の野間大御堂寺で自刃します。享年26歳でした。
とにかく秀吉を恨んでいた気持ちが伝わってきます。
辞世に名指しされるのも珍しいですね。
辞世にもある「野間」の地は昔、源義朝(頼朝の父)が
家臣に討たれた場所です。信孝は義朝の気持と
自分の気持ちがだぶったのでしょうか?
主を討つと報いを受けるぞと脅迫しているような
若さならではの辞世のような気がします。
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2004.12.01
お市の辞世
「さらぬだにうちぬる程も夏の夜の
夢路をさそふ郭公かな」
●お市【生没】天文16年(1547)~天正11年(1583)
夫・柴田勝家に殉じる時に詠み交わした辞世です。
「さらぬだに(然らぬだに)」は「そうでなくてさえ」、
「郭公」は「ほととぎす」です。
そうでなくても短い夏の夜に郭公が死をせかすようですね。
といった感じでしょうか。死に際しておちついてますよね。
そのおちつきがいっそう深い悲しみのようにも思います。
"いろは"は辞世というと名言をつくらなければ
いけないようなプレッシャーを感じてしまうと思う
のですが、素直にその時の気持ちでいいのかも
しれないですね。
結婚生活わずか半年の二人には本当に短い間の生活
だったと思います。特にお市にとっては人生も
短いものでした。
お市は織田信長の妹。はじめ小谷城主浅井長政に嫁ぎ
5人の子を産みましたが、長政が信長に攻められて自刃
すると3人の娘(茶々、初、江)と城を出て信長に養護
されました。本能寺で信長が亡くなると柴田勝家に嫁ぎます。
しかし勝家の北ノ庄城も秀吉に攻められて落城。
3人の娘を秀吉に託し、自らは勝家に殉じました。
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2004.11.30
柴田勝家の辞世
「夏の夜の夢路はかなき跡の名を
雲居にあげよ山郭公」
●柴田勝家【生没】?~天正11年(1583)
「郭公」は「ほととぎす」。カッコウ目カッコウ科
の鳥です。天正11年4月24日、勝家は北の庄城
にて別れの酒宴をひらいた後、天守閣に登って
火を放ち、妻お市とともに無念の死を遂げました。
その最後にお市と取り交わした辞世の句です。
享年62歳。二人の結婚生活はわずか半年でした。
"いろは"にはなんとなくわかるような、
わからないような辞世です。明日はこの辞世に対する
お市の辞世を紹介するつもりですが、
2人にしかわからない意味があるような気がします。
郭公に思い出があったのかもしれないし、
何が二人の秘密の夢を語り合って約束していたことが
あったのかもしれません。
旧暦とはいえ4月24日でもう夏なのでしょうか。
郭公は夏の季語でもあります。何かこの辺りにも
隠されたものがあるのかな・・・
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2004.11.29
三好長慶の和歌
「難波がた入江に渡る風さえて
盧の枯葉の音ぞ寒けき」
●三好長慶【生没】大永3年(1523)~永禄7年(1564)
「難波がた」は大阪付近の海の古称です。
難波潟の入江に吹く風が刺すように冷たくなって、
木枯れた盧のガサガサと葉がかすれあう音がいっそう
寒さをさそっているのですね。寒そうですね。
何年に詠まれたものかは不明ですが、三好政権の
衰退へ向かう冷たい風が長慶の心に中にも吹いて
いたとしたら・・・それは寒すぎますね。
長慶は三好家全盛期の当主。将軍足利義輝や管領
細川晴元と戦って勝ち、摂津芥川城を本拠として独自に
畿内を支配する体制(三好政権)を築きました。
のち、山城・摂津・和泉・丹波・淡路・阿波と、讃岐・
播磨・伊予の一部に一族諸将をおいて支配下を拡大。
しかし執事とした松永久秀が次第に勢力をのばして
長慶の権力は衰えはじめます。嫡子義興が毒殺され、
さらに久秀の讒言を信じて弟の安宅冬康を殺してからは
政務から離れ、河内飯盛城で病死しました。
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2004.11.28
毛利元就の和歌
「青柳の絲くりかへすそのかみは
誰がをだまきの初めなるらむ」
●毛利元就【生没】明応6年(1497)~元亀2年(1571)
「かみ」は物の始めの部分のこと。
「をだまき(苧環)」はつむいだ麻糸を中が空洞に
なるようにまるく巻きつけたもの。現在でも
ビニール紐などはこの形状のものが多いですよね。
中が空洞になるようにまるくまきつけた「おだまき」
の最初の部分は誰がまくのだろう???
毛利元就が首をかしげた様子を想像すると、なんだか
とても親しみを感じてしまいます。とても素朴な
疑問ですよね。"いろは"にもわかりません・・・。
賢い元就のことですから、乱世は誰から始まったの
だろう・・・とか、もっと深い意味が込められている
のかもしれませんね。
毛利氏は大内・尼子の二大勢力にはさまれ滅亡の
危機にさらされていましたが、大内氏に帰属し、
尼子晴久が郡山城に来攻してきた時も大内氏の援軍を
得て反撃、敗走させます。二男元春を吉川家へ、
三男隆景を小早川家へ養子に入れ、安芸国内に大きく
勢力を広げることが出来ました。
大内義隆をしりぞけ防長2国を掌握していた
陶晴賢を厳島にせん滅させ防長2国をも収め、一転して
石見に向かい、国人を起伏させるともに尼子遠征を
敢行します。途中嫡男隆元が不慮の死を遂げましたが
嫡孫幸鶴丸(輝元)をもりたててついに尼子氏の
富田城を攻略。中国地方随一の戦国大名に飛躍しました。
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2004.11.27
三浦道寸の辞世
「打つ者も打たるる者も土器よ
砕けて後はもとのつちくれ」
●三浦道寸【生没】?~永正13年(1516)
「土器」は「かわらけ」と読みます。
三浦義同(よしあつ)は扇谷上杉高救の子で、
相模守護三浦時高の養子となりましたが、実子高教が
生まれたので、いったん出家して道寸と名乗り、
足柄の総世寺に隠れます。その後新井城に時高、
高教を攻め滅ぼし三浦家を手に入れ、相模岡崎城に
拠りました。しかし北条早雲に攻められて、
最後は新井城にて防戦、兵糧がつきて自刃します。
「打つ者も打たるる者も」は
大内義隆
の辞世にも似たところがありますね。死の直前に
打つ者と打たれる者との双方にむなしさを感じて
いるあたりは、単なる負け惜しみでない、悟りの
境地のような心境になるものなのでしょうか。
だとしたら、道寸はおちついて死を迎えられて
よかったのかな?と"いろは"は思います。
余談ですが、この辞世は永正15年7月11日の
虎の刻に切腹のした際の辞世です。道寸を滅ぼした
北条家の子孫の氏政も天正18年の同じく7月11日
虎の刻に相果てていることから、道寸の「怨霊の祟り」
と五代記にしるされています。
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2004.11.26
北条氏康の和歌
「旗立てし昔を松も知るらめや
風に靡かぬ草も木もなき」
●北条氏康【生没】永正12年(1515)~元亀2年(1571)
真書太閤記11編巻之5「北条家行儀の事」より。
「武蔵野に出陣し給ひける時、柳島というところ
の松の根に旗をおし立てたまひて」とあります。
柳島は現在の本所横川以東の地だそうです。
「靡かぬ」の読みは「なびかぬ」。
風に靡かない草や木がないように、昔から人も
強いものに靡いて従うことを詠んだのですね。
まさに後北条氏の全盛期といった感じの和歌ですね。

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2004.11.25
中川清秀の辞世
「中川も今は三途の川ぞかし同じ淵瀬に身をば沈めむ」
●中川清秀【生没】天文11年(1542)~天正11年(1583)
賤ヶ岳の合戦の際に詠んだ辞世です。
賤ヶ岳の合戦では一族の中川淵之助も討死しました。
清秀は別称瀬兵衛ともいい、淵之助の「淵」と
瀬兵衛の「瀬」を組み合わせて「淵瀬」と読み込んで
いるんですね。仲がよかったのかもしれません。
「淵瀬」は「世の無常」をたとえる語としても使われます。
また「中川」と「三途の川」の対比も洒落ているように
思います。合戦中に詠んだにしては余裕が感じられます。
合戦前から辞世を準備していたのかもしれないですねぇ。
中川清秀は摂津茨木城主。はじめ池田勝政に仕えて
摂津高槻城主・和田惟政を討ち取りました。その後
織田信長に仕え荒木村重の配下になりますが、村重が
信長に叛いたので信長直属となります。山崎の合戦では
秀吉につき軍功をあげ、賤ヶ岳の合戦では大岩山の砦を
守って佐久間盛政と戦い戦死しました。享年42歳。
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2004.11.24
富樫政親の和歌
「神かけて末の世ちぎる梓弓
ひきとどむべき袖にあらねば」
●富樫政親【生没】康正元年(1455)~長享2年(1488)
加賀一向宗が高尾城を攻めた時、政親は妻を実家
に避難させています。この和歌は妻との別れを
惜しむ歌であろうといわれています。
神にかけて後世に又一緒になりましょう。
今はあなたをひきとめるべきではありませんから。
「末世」には仏教用語で「仏法のおとろえた世」と
いう意味もあり、あえて冒頭に「神」と使用する
政親のこの歌には、一向宗という仏教徒と戦い
続けてきた痛烈な思いが込められているようですね。
仏様には誓いたくなかったのでしょうね。
政親は北加賀守護成春の子。寛正5年富樫泰高より
南加賀の守護職を譲られました。応仁の乱が起こると、
加賀一国の支配をめぐり骨肉の争いが起きます。
政親は越前守護朝倉孝景の支援を仰ぎ、蓮如の率いる
本願寺と結び親族の幸千代党を圧倒することが出来まし
たが、その後本願寺門徒の弾圧に転じたため、長享2年
6月、一向一揆に攻められて高尾城にて死亡しました。
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2004.11.23
吉川元春の和歌
「はてし憂き心も知らで朝夕になれにし宿の秋の初風」
●吉川元春【生没】享禄3年(1530)~天正14年(1586)
続眺望集より。"いろは"も秋風が吹くころには
感傷的になったり人恋しくなったり物憂げになったり
します。戦国武将も同じなんですね。
「はて」には「最終」や「最後」という意味があります
ので、死期をさとっていたのかもしれません。
この和歌は何年に詠まれたものかは不明ですが、
元春は天正14年11月15日に病没。ちょうど
秋頃ですね。
吉川元春は毛利元就の二男。母方の安芸国山形郡の
豪族吉川興経の養嗣子となって家督を継ぎます。
弟の小早川隆景とともに毛利家を輔佐して
毛利両川と称されました。父元就とともに尼子義久を
降伏させるなど武功をあげますが備中高松城の合戦
では講和を結び、本能寺の変後、秀吉の配下になるの
を拒んで、家督を長男元長に譲りました。
天正14年毛利輝元の要請を受けて九州に出陣中に
病没。享年57歳でした。
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2004.11.22
細川ガラシャの辞世
「ちりぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ」
細川ガラシャ【生没】永禄6年(1563)~慶長5年(1600)
細川ガラシャは明智光秀の三女。日本名「玉」(たま)。
織田信長の媒酌で細川忠興に嫁ぎましたが、
父光秀が信長を本能寺において討ったため一時
丹後水戸野に幽閉されます。大阪に戻ってから
キリスト教の洗礼を受けガラシャと称すようになりました。
関が原の合戦に先立ち、石田三成の人質になることを拒み、
小笠原少斉に胸をつかせて38歳の生涯を閉じました。
キリスト教は自殺を禁じているのでガラシャは最後まで
悩んだといいます。武将の妻としては自刃したかったかも
しれないですね。"いろは"は命は粗末にしては
いけないと思っていながらも、この「ちりぬべき時」を
その時と決断したガラシャに感動してしまいます。
日本人の血でしょうか・・・。
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2004.11.21
前田玄以の和歌
「さく梅の一もとゆゑに常葉なる
木々もみながら色にこそなれ」
●前田玄以【生没】天文8年(1539)~慶長7年(1602)
咲いている梅の木が1本だけしかないからこそ、
周りの常緑樹に映えてなお風流だということでしょうか。
「色」には「風流である」という意味があります。
この和歌は天正16年聚楽第歌会にて詠まれたものです。
聚楽第の庭の光景がうかがいしれる嬉しい歌でも
ありますね。
前田玄以は丹波亀山5万石の領主。秀吉五奉行の
一人でもあります。美濃出身で比叡山に入って僧となり
尾張小松原寺の住職になったといわれています。
本能寺の変の時に織田信忠の命で安土にいた
三法師丸(信忠の嫡男・後の秀信)を守って清洲に
移りました。秀信の傅役をつとめる一方で京都の
所司代となり深い学識に基づく庶政をおこないました。
関ヶ原の戦いの時には表面上は西軍に属しながらも
三成挙兵を家康に通報するなどして所領安堵を得ますが
まもなく病没。
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2004.11.20
大谷吉継の和歌
「契あらば六つの衢に待てしばし
おくれ先立つたがひありとも」
●大谷吉継【生没】永禄2年(1559)~慶長5年(1600)
六つの衢(むつのちまた)は仏教用語で、命ある
ものが善悪の業によっておもむき住む6つの迷界。
(地極、餓鬼、畜生、修羅、人間、天。)
六観音、六地蔵、六道銭などはこれに由来するそうです。
前後はするだろうがお互い死ぬことになるであろうから
六つの衢で待っていて欲しい・・・。吉継が関が原の
合戦時に平塚為広(腹心)から贈られた和歌に対しての
返歌です。いいですねぇ。男の信頼関係というか、
友情というか・・・たまらなく"いろは"は大谷吉継が
好きです。
吉継は天正13年、従五位下刑部少輔に叙任され、
同17年越前敦賀城に封じられ5万石を領しました。
豊臣秀吉に信任され「百万の軍の軍配を
あずけてみたい」と褒められたといいます。
奉行として九州平定、小田原征伐などに従軍、
関ヶ原の合戦では仲のよかった石田三成から協力を
求められ病躯にもかかわらず陣頭指揮をとりますが、
小早川秀秋の裏切りにより敗戦が必至となり自刃します。
この和歌は三河後風土記下巻第三十九
「大谷平塚戸田討死附西軍敗走の事」より。
常山紀談巻之十三にもこの贈答歌があり、こちらは
「契あらば六つの衢に待てしばし
おくれ先立つことはありとも」
となっています。
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2004.11.19
平塚為広の和歌
「君がため捨つる命は惜しからじ
つひにとまらぬ浮世と思へば」
●平塚為広【生没】?~慶長5年(1600)
平塚為広は豊臣秀吉の臣。小牧長久手の戦い、
小田原征伐に戦功があり印旛守に任じられ5万石を
与えられました。次いで、美濃垂井1万2千石を領し
秀頼に近侍します。関ヶ原の戦いでは大谷吉継の
使者として石田三成を佐和山に訪問。伏見城攻略後、
関ヶ原の前線で戦います。しかし小早川秀秋の裏切りを知り
本体(大谷吉継隊)支援のため兵をまとめて引き返し、
背面の敵と激戦。敵の兜首2個を吉継に送りましたが
戦死します。この歌は大谷吉継との贈答歌になっています。
君(大谷吉継)のためにささげる命は惜しくありませんという
信頼関係は本当にすごいですね。そういわせるだけの
大谷吉継も"いろは"は個人的に大好きです。
この和歌は三河後風土記下巻第三十九
「大谷平塚戸田討死附西軍敗走の事」より。
常山紀談巻之十三にもこの贈答歌があり、
こちらには
「名のために捨つる命は惜しからじ
つひにとまらぬ浮世と思へば」
となっています。明日かあさってにはこの歌に対する
大谷吉継の返歌をご紹介できればと思いま~す。
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2004.11.18
津軽為信の和歌
「千世かけて治まる御代のしるしには
雲居しづかに月のさやけさ」
●津軽為信【生没】天文19年(1550)~慶長12年(1607)
真書太閤記12編巻之12「関白殿下奥州御巡見の事」
より。為信は陸奥弘前藩4万7千石の初代当主。
はじめ南部氏族だった大浦氏を名乗り大浦城にいました
が南部氏の津軽支配が衰えたので自立。天正年間の頃
津軽地方を統一しました。豊臣秀吉の小田原征伐には
いち早く参陣して本領安堵。この頃より「津軽氏」を
称するようになります。この和歌は秀吉を迎えて
詠んだ歌と言われています。下剋上により自立した
為信には、秀吉(関白殿下)からの本領安堵の
“おすみつき”(公認)はどれだけ嬉しかった事でしょう。
そして心静かに迎えられる平和な夜の月の美しさに
秀吉への感謝の気持ちをあらわさずにはいられなかった
のかもしれませんね。
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2004.11.17
佐々成政の辞世
「この頃の厄妄想を入れおきし鉄鉢袋今破るなり」
●佐々成政【生没】天文5年(1536)~天正16年(1588)
佐々成政関係資料集成より。
佐々成政ははじめ織田信長に仕え黒母衣衆の筆頭に
選ばれてます。本能寺の変後しばらくして秀吉の臣下に
列すること決めますが、秀吉打倒の織田信雄、
徳川家康に呼応して秀吉方の前田利家と戦ったため、
秀吉の攻撃を受け頭を丸めて降伏しました。
歌中の「鉄鉢」は僧侶が托鉢の時に用いる鉄製の鉢です。
九州征伐後肥後国主に任じられましたが国人領主層の
反抗を受け、鎮圧に不手際があったとして、
天正16年摂津尼崎で切腹させられます。この辞世は
に非常によく似ていると思います。
「莫妄想」を「厄妄想」、
「へむなし袋」を「鉄鉢袋」
に置き換えていて主君に抹殺された太田道灌と
同じだと暗に訴えているような気がしてなりません。
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2004.11.16
太田道灌の辞世
「昨日までまくもうぞうを入れおきしへむなし袋今破りてむ」
●太田道灌【生没】永享4年(1432)~文明18年(1486)
「まくもうぞう(莫妄想)」は禅家の語。妄想することなかれ。
判断、分別に陥ることを戒め、転化して逆に妄想の意に
使われていたそうです。「へむなし袋」は役に立たぬ、
何のとりえもない肉体の意。直訳すると昨日まで妄想を入れて
おいた肉体を今破ろう・・・といったところでしょうか。
歌人としても多くの歌を残している太田道灌(おおたどうかん)
は扇谷上杉氏の譜代の家人です。父・道真とともに、
江戸・川越・岩付(岩槻)の3城を築きました。
善政で人望を集めましたが主君の上杉定正に抹殺されて
しまいます。道灌にとっての妄想とは?主君に信頼されている
と思っていたことかもしれません。信じていたのにぃぃぃ。
信じて尽くしてきた主君に抹殺されてしまう悲劇の辞世ですね。
(涙)
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2004.11.15
足利義昭の和歌
「もろ供に月も忘るな糸桜年の緒ながき契と思はば」
●足利義昭【生没】天文6年(1537)~慶長2年(1597)
続応仁後記巻9「南陽寺花御会事」より。永禄11年
3月下旬ごろ朝倉氏の居城のある一乗谷の南陽寺で
行われた催しでの和歌。シダレザクラのように長く
時間はかかるではあろうが、ここにいる皆も夜空に
でている月もこの約束だけは忘れないでほしい・・・?
契りは自分が将軍として弱体化した室町幕府を再興
することを各地の戦国大名達に依頼したことでは
ないかと思います。義昭が15代将軍となったのは
この年の9月でした。でも義昭を奉じて幕府再興を
実現したのはこの会のメンバーではなく織田信長
でしたね。義昭のあせりのようにも、なかなか動いて
くれない朝倉氏へのひにくのようにも"いろは"には
思えてしまいます。
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2004.11.14
大友宗麟の和歌
「富士うつる田子の浦わの里人は雪の中にも早苗とるなり」
●大友宗麟【生没】享禄3年(1530)~天正15年(1587)
大友公御家覚書より。宗麟が文武両道に秀で、和歌の道
にも心を寄せていると知り叡感した後奈良天皇が
「雪中早苗」という難題を出され、それに奉答した和歌です。
田子の浦は静岡県富士市南部の海岸で、古くは富士川西岸、
蒲原、由比、興津の海岸をいうそうです。
田子の浦の里人は田の水面に映った富士の雪の中の早苗を
とっているというほどの意味なのでしょうが、難題を見事に
クリアしてますよね。すご~い頭いいですね。。
九州の武将なのに富士山を見たことがあったのでしょうかね?
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2004.11.13
藤堂高虎の和歌
「帰るさの道をたがはぬ燈火かな浮世の闇を照らすばかりに」
●藤堂高虎【生没】弘治元年(1556)~寛永7年(1630)
はじめ浅井長政の臣。やがて織田(津田)信澄、羽柴秀長に
仕えました。秀長が没すると猶子秀俊に仕えます。文禄の役
には水軍を指揮しましたが連敗。秀俊の死に遭い、敗北の恥と
主君の死を嘆いて高野山に入ります。その後秀吉の召還に応じ
伊予板島7万石を与えられるのですが、この和歌はその際の
高野山を出る時の感慨を詠んだものだそうです。
浮世の闇を照らすこの燈火についてゆけば道を間違える
ことはないであろう・・・。燈火とは秀吉のことでしょうね。
今度こそひとつのところでじっくり働きたい・・・
そんな願いが痛いほど感じられるような気がします。
しかし関ヶ原の合戦には東軍に属し徳川家康につきます。
戦国時代を生き抜く彼の迷いや不安が見え隠れしている
和歌だと思いませんか?
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2004.11.12
立花道雪の和歌
「岩根ふみ峰のかけぢのさかしさも何武士の道にかはらじ」
●立花道雪【生没】永正12年(1515)~天正13年(1585)
かけじ(懸路)は、木材で崖に棚のように造りかけた路。
さかしい(賢しい)は、しっかりとゆるぎなく整っていること。
岩の多い険しい山路をゆくとき、しっかりよく整った桟道が
あるように、乱世を生きる武士の道もこれとかわらない。と
いったところでしょうか。武士道ですねぇ。
旧姓・戸次鑑連(べつきあきつら)、「西の大友」と言われる
ほどの大友氏の重鎮で、大友宗麟は道雪に立花城を守らせ、
同時に立花姓も名乗らせる事にしました。「道雪」は
剃髪してからの号です。生涯に37度戦って一度も負けた
ことがない勇将で、毛利氏や島津氏の侵攻で落ち目となった
大友氏を見捨てず最後まで大友氏を守って戦いました。
道雪は若い頃雷に打たれて歩行が困難になり輿に乗って
陣中で指揮をとっていたそうです。不自由な体でここまで
武士の道をつらぬいた道雪の心の強さに惹かれますね。
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2004.11.11
土岐頼芸の和歌
「杜若しげる眺めにうち渡す橋のゆききぞいとど絶えせぬ」
●土岐頼芸【生没】文亀2年(1502)~天正10年(1582)
武林拾葉より。杜若は「かきつばた」(季語夏)。
頼芸は斉藤道三の経略により兄頼純を追い家督を継ぎます。
しかし道三に追われて大桑城を脱出。漂白の後、眼を患い
盲目状態になり、後に旧臣稲葉一鉄の保護のもと美濃へ
帰ることができましたたがひっそりと流浪の生涯を閉じます。
盲目となってから詠んだものかどうかは不明ですが、
まるで浮世絵を思わせるような風景描画ですね。
おちぶれた自分は風景の外にあり、絶え間ない人々の往来
にとり残されたような感傷を思うと寂しい気もします。
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2004.11.10
長宗我部元親の和歌
「ゆたかなる都のうちの松風に沖つ島根も浪しづかなり」
●長宗我部元親【生没】天文8年(1539)~慶長4年(1599)
聚楽第行幸記より。題名は「詠三寄松祝一和歌」。
秀吉の天下統一で世の中が平和になった(静かになった)
ことへの喜びの歌ではあるのでしょうが、立場上のお世辞
にようにも感じられますね。ほぼ四国を制覇したあとに
秀吉の四国征伐によって土佐一国にされてしまった元親の
無念も隠されているような気がしてなりません。
戦国時代の終わりを感じていた元親は関が原の合戦の
前年に61歳で病没しています。"いろは"にとって
あと1年長生きして欲しかった武将の一人です。

"いろは"は「大阪の陣絵巻」
の筑後川様が提唱する運動に参加しています。
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2004.11.09
高橋紹運の和歌
「かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ雲居の空に名をとどむべき」
●高橋紹運【生没】天文17年(1548)~天正14年(1586)
「かばね」は屍。「岩屋」は紹運が守っていた岩屋城(筑前)
です。高橋紹運記35より。岩屋城を攻めていた島津忠長が
紹運の武勇をたたえつつ「誰もが大友氏を見限っている時、
なにゆえの忠義ぞ」と問うと「主人の盛んな時に役立つ
武士はいかほどにも候、衰えたるときに腹を切ってこそ
誠の武士にて候。」と紹運は答えたといいます。
紹運は城の櫓に登り、敵味方の見守る中で自刃しました。
豪快さと爽やかさまで感じてしまいます。享年39歳です。
若いですよね。
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2004.11.08
荒木村重の和歌
「たびたびの真先にかかる大将は敵も味方もはては討死」
●荒木村重【生没】?~天正14年(1586)
佃が軍歌より。真先は「まさき」と読みます。
大将とはまさに主君、織田信長のことでしょうね。
信長の行う改革にも不安をいだき敵でも味方だとしても
討死してしまうのではないかという行き場の無い気持ち。
当時の信長の家臣は皆いだいていた心境かもしれません。
信長に離反した村重は毛利家に寄って生き長らえ、秀吉の
代になって堺に招かれ、剃髪して筆庵道薫と号し茶道を
利休に学び、利休七哲の一人と称されるまでなりました。
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2004.11.07
豊臣秀吉の辞世
「露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢」
●豊臣秀吉【生没】天文5年(1536)~慶長3年(1598)
木下子爵家蔵文書より。享年63歳。本人自らが
夢のような人生と詠っている彼の人生は今でも出世物語として
多くの人に夢を与えていますよね。露を広辞苑で調べると
「涙にたとえていう語」とあります。涙とともに生れ落ち
涙とともに死んでゆくわが身・・・。秀吉の夢のような
人生の裏には想像を絶する涙の苦悩や悲しみも多かった
のでしょうね。しみじみ。
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2004.11.06
大内義隆の辞世
「討つ人も討たるる人ももろともに如露亦如電応作如是観」
●大内義隆【生没】永正4年(1507)~天文20年(1551)
大内義隆は尼子遠征の富田城で敗北後、学問・文芸に没頭
するようになります。天文17年には従二位に叙任され、
将軍をのぞけば武家として最高の階級となりましたが、従来
からの文治派、武断派の対立や文事に走る義隆への不満
から陶晴賢らに排斥され、深川の大寧寺(長門市)に火を
放たせ45歳の生涯を閉じます。「討つ人」は陶晴賢ら、
「討たるる人」は自分、どちらもその行為は露のように、
また雷(いかづち)のようにむなしいものだということ
なのでしょうね。「如露亦如電応作如是観」の読みは
「にょろやくにょでんおうさにょぜかん」金剛経の一句です。
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2004.11.05
上杉景勝の和歌
「白妙の月は空の夜かくばかり越路の山の雪もありきや」
●上杉景勝【生没】弘治元年(1555)~元和9年(1623)
豊公歌集「聚楽中秋明月の歌会にて」より。この和歌は
衆妙集には「月の比越後の国主上杉なにがしに
つかはしける」と詞書して細川幽斎の作となっています。
献作でしょうか?「白妙の」は枕詞で「雪」などに
かかります。聚楽第の中秋の名月の明るさが越後の山々の
雪明りにだぶったのかもしれません。近づく雪の季節を
雪国の武将は誰よりもはやく感じ取るのでしょうね。
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2004.11.04
朝倉義景の和歌
「唐人のひじりを祀る昔にもたちかへるなり九重の空」
●朝倉義景【生没】天文2年(1533)~天正元年(1573)
「唐人の聖を祀る」は釈奠(せきてん)。孔子を祀る典礼
です。日本では大宝1年(701年)に行われたのが
最初で、室町時代にはいったん廃絶していました。
(のちに江戸幕府の諸藩が再興したそうです。)
永禄6年、秋十五番歌合にあるこの和歌は判者
「老法師」の判詞に「この歌会のお題は秋祝。
釈奠は2月・8月と2度あるものだから、結句を
九重の秋とするとよいでしょう。」といった内容が
残されています。ふと昔をなつかしんでいる和歌なの
かと思っていましたが、お題があったのですね。
でも、孔子を和歌に詠み込むあたりは義景の
文化人らしい一面が感じられますね。
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2004.11.03
佐久間盛政の辞世
「世の中をめぐりもはてぬ小車は火宅の門を今いづるなり」
●佐久間盛政【生没】天文23年(1554)~天正11年(1583)
甫菴太閤記第六「柴田権六佐久間玄蕃允事」より。
火宅は現世のこと。煩悩が盛んで不安なことを火災に
かかった家宅にたとえていうそうです。本能寺の変に乗じて
起きた能登石動山の宗徒反乱では前田利家をよく助け、
賤ヶ岳の戦いでも中川清秀を戦死させるなど軍功を挙げた
盛政ですが、秀吉に敗れ、敗走途中に囚われの身となり、
降伏しなかったため斬首されました。
自分のことを「小車」と表現しているあたりに、"いろは"
は何となく現世での働き疲れを感じてしまいます。
そんなに早く門をでてゆかなくても・・・。ひきとめたい。
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2004.11.02
蒲生氏郷の和歌
「陸奥も都もおなじ名どころの白河の関いまぞ超えゆく」
●蒲生氏郷【生没】弘治2年(1556)~文禄4年(1595)
文禄元年の朝鮮出兵の際、会津から上京する時の
蒲生氏郷卿紀行より。陸奥は「みちのく」と読みます。
氏郷は会津に移封の際「小身でも都の近くにいれば
いずれは天下を狙うことができるのに、いかに大身でも
会津のような遠国ではもはやその望みも絶たれた。」
と涙を流したといいます。滋賀の山を越え、近江国大津
から京都北白川に出る峠道を白川越えといいます。
陸奥にある同じ「シラカワ」という地名をみて、
「同じシラカワでも近江の白川越えならば都はすぐ目の
前であるのに・・・」と思ってしまったのではないでしょうか。
背中に哀愁をただよわせて詠んでいる氏郷が見えるよう
ですね。
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2004.11.01
北条早雲の和歌
「梓弓おして誓ひをたがへずは祈る三島の神もうくらむ」
●北条早雲【生没】永享4年(1432)~永正16年(1519)
「梓弓」は枕言葉。どの時期に詠まれたものかは不明ですが
早雲の代に制定されたと推定される17条の国法のうち、
第1条が三島神社の祭礼銭についてであり、早雲が三島神社
への信仰を大切にしていたことが感じられます。
「誓ひをたがへずは」は今川家家督相続の際、早雲の甥
竜王丸(後の今川氏親)が成人するまで家督を代行する
はずだった小鹿範満が約束をたがえて、竜王丸が成人して
も譲らなかったことを思いおこさせますね。
もちろん早雲は範満を討って竜王丸を家督につけました。
何かこのときに詠まれたのではないかと思ってしまいます。
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織田信長の和歌
「今川の流れの末もたえはてて千本の櫻散りすぎにけり」
●織田信長【生没】天文3年(1534)~天正10年(1582)
千本は「ちもご」と読みます。
天正10年4月中旬に信長は駿府の徳川家康を訪ね、
今川義元の千本櫻の名のみが残っているのを弔って
詠ったと伝わっています。織田信長に故人を弔う気持ち
があったことが、何だか"いろは"は嬉しいのです。
でもわずかこの約2ヵ月後に本能寺の変が起き、
彼自身が明智光秀によって討たれてしまうのですね。
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2004.10.31
石田三成の辞世
「筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我身なりけり」
●石田三成【生没】永禄3年(1560)~慶長5年(1600)
筑摩(ちくま)はツクマとも読み、古来の琵琶湖東端の地名
です。近江出身の三成には筑摩は故郷でもあり、
最後に領していた佐和山がある地でもあり、秀吉との
出会いの場所でもありますね。
"いろは"は「かがり火」を秀吉に置き換えられるのでは
ないかなぁと感じています。
秀吉が没して三成を照らしていたかがり火(威光?)
が細く消え入るように三成の人生は消えいってしまった・・・。
少し秀吉への哀慕も感じてしまうのは"いろは"だけかな。
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明智光秀の和歌
「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ」
●明智光秀【生没】享禄元年(1528)~天正10年(1582)
真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」に
天正10年5月光秀は叛逆を決意し「丹波に坂本召し
上げられし上からは人々我に続け」といいながら坂本への
道すがら詠んだと伝えられています。
このとき光秀は転封を命じられていましたが、
新しい領地はまだ敵の領地であり、合戦で切り取り次第、
つまり領地を召し上げられ、合戦で勝たなければ帰る場所が
ない状況に追い込まれていました。本能寺の変の黒幕説が
話題になりますが、「心しらぬ人は」に対して
「知っている人」は誰だったのでしょうね。
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伊達政宗の辞世の句 & はじめに
「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く
(晴れてこそゆけ)」
●伊達政宗【生没】永禄10年(1567)~寛永13年(1636)
安土桃山通販看板娘の"いろは"です。
戦国時代が大好きで、戦国武将が大好きで、お城も大好き。
毎日さまざまなことに思いをはせています。
辞世や和歌から史実に記されない武将の心理を感じたり、
知っているつもりのことがらでも見直すと新しい発見があったり
そんな戦国時代徒然日記を残してゆきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
伊達政宗の辞世は好きな辞世のひとつ。
曇りなき心で自分の道を照らしてあゆんでいけたら素敵だなぁ。


