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2005.01.09
浅井長政の和歌
「けふもまた尋ね入りなむ山里の
花に一夜の宿はなくとも」
●浅井長政【生没】天文14年(1545)~天正元年(1573)
何かの歌会で詠まれたのか、辞世なのかは不明です。
直訳すると自分を花に置き換えて、泊まるところが
なくても今日も山里を訪ね歩く・・・といったところで
しょうか。落ち着くところが常にない状態で迷路を
彷徨っているような印象ですね。織田信長と浅倉義景の
間で苦しんだ戦国武将ならではの安息のない日常の
叫びにも聞こえるのは"いろは"だけでしょうか。
浅井長政は近江小谷城主久政の子。織田信長の妹お市を
正室に迎えて信長と同盟し六角氏の内乱に乗じて
六角義賢父子を敗走させ、朽木元綱も降し、南近江を経略
しました。しかし信長と足利義昭の仲が険悪になると
朝倉義景に与して信長に離反、更に六角義賢とも結びます。
姉川の戦いにおいて朝倉・浅井2万と織田・徳川3万の
連合軍が激戦を展開しますが敗戦。
長政は再起不能となり小谷城に火を放って自刃しました。
享年29歳。
投稿:by いろは 2005 01 09 | 固定リンク
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コメント
こんにちは
与六です。
平和的ではあったかもしれませんが、クーデターを起こして父親から実権を奪った事がこの人の命取りの始まりだったかもしれません。
したたかな父親は最後まで息子に無断で様々な行動をしていたようです。
結局、それが金ヶ崎になって、姉川になって、最後落城。
詰めが甘かったのでしょうか?
父親が一枚上手だったような気がしますが・・・
その点、信玄坊主は見事な無血クーデターを成功させています。
ともあれ、この人の孫は3代将軍家光になり、曾孫は天皇になったのですから、それはそれで凄い事ですね。
投稿者: 与六 (2005/01/09 17:32:16)
与六様 こんにちは。"いろは"です。
そうでした。そうでしたぁぁ。
徳川家光は浅井長政の孫でもあるのですよね。
「徳川家康の孫」という印象が強すぎて、
もう一人のお祖父さんをうっかり忘れて
おりました!いけない、いけない。
血筋って本当にすごいなぁと思います。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿者: いろは (2005/01/10 1:03:38)
こんにちは。末裔です。
今、家の先祖について調べていてここのサイトに行き当たりました。 信じてもらえるかわかりませんが、家は浅井家の末裔です。
家宝?の刀(短刀)も人にあげてしまったようですし、証拠といわれても何もありませんが・・・
浅井家について知っていることは、祖母に聞いたすごく弱い大名で戦に破れて改名していままで生き長らえたという悲しいことしか知りませんでした。
叔父の代で本家が消滅してしまいます。
何か情報がありましたら教えていただけませんか?
投稿者: 末裔 (2005/03/03 13:27:46)
末裔様。はじめまして。"いろは"です。
コメントをいただきましてありがとうございました。
浅井家の血筋の方が生きておられるとは歴史ファンと
してもとても嬉しいです。
織田信長や、徳川家康とも遠縁といえるのですね。
歴史上の浅井家のことは「家紋World」さんの
などでも取り上げられています。"いろは"もよく
お世話になっています。
先祖について調べるには、はじめは役所などで除籍謄本
を取得して、一族の亡くなった方をたどってゆくそうですよ。
ただし、役所の除籍謄本の保管期間が決まっているため
保管期限を過ぎるとわからなくなってしまいます。
早めに取得されたほうが良いと思います。
調査方法の詳細はよくわかりませんが、
そういった本格的な先祖の調査の仕方が書籍としても
出版されていたと思います。
著者は日本家系図学会の「楡井(にれい)範正」先生です。
ご参考になれば幸いです。がんばって下さい。
コメントをいただきましてありがとうございました。
投稿者: いろは (2005/03/04 18:08:36)
いろは さま
色々と情報ありがとうございます!
役所ですか・・・実は私から4代前(明治初期)に分家との間に何かがあり本家一族は北海道に移り住んでいます。
いつか本家があった場所もわかっているので調査をしたいと思います。
ですが、書籍などでは早速調査をしたいと思います。
浅井家について知らなかったこと(徳川家光、織田信長とのかかわりなど)が多くて驚くばかりです。
投稿者: 末裔 (2005/03/05 0:58:02)
末裔様。こんにちは。"いろは"です。
お返事をありがとうございます。
戸籍謄本は遠方に該当の役所がある場合は、
郵送で申請して、取り寄せることができます。
除籍謄本については郵送対応があるのかハッキリとは
わからないのですが、問い合わせてみる価値はあると
思います。色々とわかってくるのが楽しみですね。
がんばって下さい。
投稿者: いろは (2005/03/11 17:56:39)
はじめまして。
信じる信じないの問題になってしまうかもしれまさんが、私の母は織田信長の妹お市の魂を持つ者です。お市のことを調べていて、このサイトで浅井家の子孫の方とのことで興味を持ちコメントしてみました。
私は、秀頼の長女(国松の姉)天秀尼の魂を持つ者です。いろいろなことがあり、今年やっと自分の因果にたどり着きました。少しばかりの霊感と神や仏の声を感じ取ることが出来るので、御魂の声を感じ取ながらの、供養や過去の歴史の真実の調査の旅を母と行っております。先月は秀頼、国松、信長、三成、関が原にいってまいりました。神に報告して向っている為か、天が示してくれました。大阪城落城後、秀頼は天草地方に向っています。鹿児島県谷山にある供養塔(遺骨無し)は大阪に帰りたいと反応しましたが、秀頼は天草にいたと言えます。おそらく、秀頼は、そこでの女と結ばれて四郎が産まれたと考えられます。国松も逃げ延び、大分県立石に墓があるとのことでしたが、秀頼の子かもしれませんが、あくまでも国松の御魂は京都の豊国陵にある供養塔です。ついでに、松の丸は、「淀殿が不敏でならなかった」とのことです。秀吉の後継者を産むことで、おねの嫉妬による謀りによって、城内はその噂で淀は気の毒でした。茶会で順番を巡って淀と松の丸が争うのをおねが仲裁に入ったとありますが、これも陰謀です。二人はいとこ=仲間であり国松の死骸を引き取る処は、その証といえます。
投稿者: 西條 佑吏子 (2005/12/08 3:36:49)
西條様。はじめまして。"いろは"と申します。
貴重なコメントをどうもありがとうございました。
秀頼公ゆかりの方にブログをご覧いただきまして
光栄です。たくさんの有名武将につながる
お血筋ですので色々大変なことも多いかと思いますが、
ゆかりの地を回られるのはとてもよい事だと思います。
ご先祖様を忘れないでいることが一番の供養だと
何かで聞いた事があります。これからもどうぞがんばって
下さい。つたないブログではございますが、
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿者: いろは (2005/12/09 19:44:35)


