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2004.12.07

ねね(禰々)の和歌

「ともなひて眺めにあかし深雪山
           かへるさ惜しき花の面影」

●ねね【生没】天文18年(1549)~寛永元年(1624)

 昨日にひきつづき慶長3年3月に行われた醍醐の花見、
今日は「ねね」が詠んだといわれる和歌です。
連れだってきた深雪山醍醐寺の眺めは見事な桜の花で
まぶしいくらいに明るく、帰るのが惜しいくらい・・・
といった感じでしょうか。淀殿と比べると素直な感じが
しますね。正室の地位にあるとはいえ、沢山の側室達と
一緒では、楽しめなかったのではないでしょうか?
"いろは"なら早く帰りたくなっちゃうと思います。
とはいえ、早く帰りたいとは和歌には詠めないですよね。

茶々(淀殿)の醍醐の花見の和歌

「ねね」は豊臣秀吉正室。浅野長勝養女。杉原定利の次女
として生まれ叔父浅野長勝の養女となりました。
14歳で当時26歳の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と結婚。
北政所と呼ばれ天正16年には従一位を賜わりました。
秀吉没後は落飾して高台院と号し、世継ぎの秀頼と生母淀殿
に大阪城を譲り京都三本木に移ります。関ヶ原の戦い時には
実家ともども徳川方に味方し高台寺と河田1万3千石を贈らました。

投稿:by いろは 2004 12 07 | 固定リンク

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コメント

こんにちは
与六です。

ある意味自分の手作りの豊臣家を太閤の死で淀殿にもっていかれた嫉妬は必然でしょうが、関ヶ原をたきつけるような結果は後で後悔したと思います。
結構、権力欲が強かった人じゃないでしょうか。
ともあれ、この人も貧乏足軽の家の出で、はじめは文字も読めなかったと思います。
太閤もそうだったでしょうが、それが立派な辞世まで残せるまでになるのは努力もあったでしょうが、元々頭の良い人だったんでしょうね。
信長様が安土にいらした時に秀吉の愚痴を言いに行ったエピソードが好きです。

投稿者: 与六 (2004/12/07 12:19:33)

与六様 こんにちは。"いろは"です。
深いですねぇ。よく宝くじが当たると
人間が変わってしまう(悪い意味で)と聞きますが、
ねねも夫が出世しすぎて(好色すぎて)、純粋さや
正義感など失うものも多かったのかもしれないですね。
太閤殿下の正室ですから周囲からはうらやましがられる
ことも多かったのでしょうが、本人がその出世を本当に
幸せと感じていたかは疑問ですね。
いつもありがとうございます。

投稿者: いろは (2004/12/08 1:28:43)

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