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2004.12.05
細川忠興の和歌
「たち別れ松に名残はをしけれど
思い切戸の天の橋立」
●細川忠興【生没】永禄6年(1563)~正保2年(1645)
関ヶ原の合戦後に丹後から豊前に国替えとなり、
その移動中に犬の堂より天の橋立を見て詠んだそうです。
日本海側の海路をとるコースでしょうか?
本能寺の変の時には夫人ガラシャが明智光秀の娘で
あったことからいろいろ気苦労も多かったでしょうね。
そのガラシャも関が原の合戦直前に亡くし、
どんな思いで丹後を後にしたのでしょうか。
「名残」には様々な思いが詰まっているようです。
丹後12万余石から豊前39万9千石への移封ですので、
ここで思いを断ち切って、忙しくなる新しい領国経営へ
臨んだのかもしれません。
投稿:by いろは 2004 12 05 | 固定リンク
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コメント
こんにちは
与六です。
忠興、越中守、三斎、幽斎の子・・・
一説にはガラシャに対して強烈な独占欲があって人目にも触れさせなかったとか、ガラシャと会話したという下男を無言で手討ちにしたとか小さい男のように言われていますね。
少し気の毒です。
そこまで小さい男ではなかったと思います。
多くの弟子達が太閤を恐れてなにもしなかったのに、太閤のを無視して利休を堂々と見送ったり格好いいところもあります。
京都の大徳寺の忠興の塔頭。高桐院は見事ですね。
参道を歩いて建物の入り口までがタイムトンネルのように感じます。
枯山水の庭とか利休作の灯篭とか・・・戦国のわびさび世界ですね。
名古屋三左衛門と出雲の阿国の墓もなぜかここに一緒にあります。
辞世的にはどうなんでしょう。
父親が父親だけに和歌に対しては相当なプレッシャーがあったでしょう。
きっとこれも何度も書き直した結果でしょうか。
時はとっくに戦国から江戸。
「剛」の部分が全く感じられないのは時代かな?
投稿者: 与六 (2004/12/05 11:34:20)
与六様 こんにちは。"いろは"です。
黒田長政のイメージはいろいろなんですね。
大河ドラマ「徳川三代」では、捕まった石田三成に、
陣羽織をかけてあげたいた心優しいシーンが
心に残っています。確かに「剛」のイメージは
ないですね。辞世も気になるところです。
(探してみます!)
>京都の大徳寺の忠興の塔頭。高桐院は見事ですね。
そうなんですね。今すぐこの紅葉の時期に
行きたい・・・。京都にいったら寄って見ます!
貴重な情報をどうもありがとうございました!
投稿者: いろは (2004/12/05 23:25:09)


