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2004.12.22

陶晴賢の辞世

「なにを惜しみなにを恨まんもとよりも
         このありさまの定まれる身に」

●陶晴賢【生没】大永元年(1521)~弘治元年(1555)

 こうなることは最初から定まっていた運命なのだから、
惜しんだり、恨んだりすることはない・・・。
でも、悔しかったでしょうね。上司に恵まれない不幸は
現在でも同じですが、自分の信じた道に進んで行動できた
結果なので、潔くもなれたのかもしれません。
下克上をなしとげられなかった戦国武将の一人ですねぇ。

晴賢(はるかた)は周防守護代興房の二男。19歳で
家督を継ぎました。文事にはしる主君大内義隆を排斥し、
大友宗麟の弟晴英を迎えて主としましたが津和野の
吉見正頼や毛利元就がこれに叛きます。
弘治元年に厳島において元就との戦い敗れて自刃。
享年35歳でした。若いですね。

投稿:by いろは 2004 12 22 | 固定リンク

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コメント

こんにちは
与六です。

陶晴賢、あっぱれ!
小早川隆景相手でなければ厳島もどうなってたことやら。
この人はこの人なりの正義と未来の為に大胆ではありましたが己に忠実に事を成したと思います。
地元では大内は文化的には地元に非常に貢献したが、ただそれだけ。
というイメージと、陶晴賢は謀反人というイメージがあります。
ですがそれは後にこの地を治めたのが陶晴賢を破った毛利ということでプロパガンダ的に作られたイメージであると思われます。
勝者が歴史を「作る」という事実は敗者には無情です。
同様に損をした敗者も大勢いますね。
同じ敗者?でも武田信玄は逆にバブル評価になっています。
これは江戸時代が260年も続き、その時代の唯一の「神」である東照大権現が三方ヶ原で大敗北をした事が大きな原因のようで東照大権現を崇めれば崇めるほど評価を上げざるを得ない面白い事実ですね。
ともあれ晴賢は「やるだけのことはやった」と自覚して潔く逝ったと思います。
埋もれてしまいがちな敗者の再評価って面白くて好きです。

投稿者: 与六 (2004/12/22 12:29:00)

こんばんは

陶氏の居城富田若山城(周南市)は、遺構はありませんが、山頂の本丸まで道が整備されており車で登ることが可能です。

国道2号線から登山口に入ることができます。ただし、本当に何もありません。本丸跡からの眺めは瀬戸内を一望できますが。

若山城から北へ山2つぐらい越えると大内氏の本拠があった西の京山口、実際にこのルートを縦走された方がいたそうです。名づけて「陶殿謀反ルート」だそうです。

投稿者: o_sole_mio (2004/12/22 23:57:54)

 与六様 こんにちは。"いろは"です。
「埋もれてしまいがちな敗者の再評価」・・・本当に
そうですね。そうですね。子供の頃は「正義は勝つ」と
素直に思っていましたが、戦国時代を見ていると
正義は勝者が作っていることに気づき複雑な心境に
なりました。関が原で負けてしまった石田三成も
もっと違う評価があっていいと思います。
"いろは"はひたすら真面目で誰か(自分)がやらなければ
という責任感と正義感が強い人だったと思っています。
同情とは違った平等な真実で彼らを見てみたいですよね。
いつもありがとうございます。

投稿者: いろは (2004/12/23 2:21:39)

o_sole_mio様 こんにちは。"いろは"です。
貴重~な富田若山城の情報をありがとうございます。
行ってみたいなぁぁぁ。陶殿謀反ルートも歩いて
見たいなぁぁぁ。何もなくてもOKです。
何もなくても城跡は大好きです。
陶氏を偲びながら瀬戸内海が見れればさらに幸せ。
近くに行くときは必ずよってみたいと思います。
本当に嬉しい情報をどうもありがとうございました。

投稿者: いろは (2004/12/23 2:25:59)

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