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2004.12.17

山名宗全の和歌

「星合の頼む夕べを待ちすぎて
        床のひとりゐ夜半ぞふけゆく」

●山名宗全【生没】応永11年(1404)~文明5年(1473)

 「星合い」は陰暦7月7日の夜、牽牛・織女の2星が
相会うこと、七夕ですね。夜中になるまで一人で星を
眺めていたのでしょうか。ちょっとロマンチックな人
だったのかも・・・。戦国武将の和歌にはなかなか恋歌
をみつけることができませんが、宗全の心に思う人が
あったのかもしれないですね。応仁の乱の「西軍大将」
のイメージとはまた一味違った和歌です。

宗全は剃髪してからの号で、本名持豊(もちとよ)。
嘉吉の乱で赤松氏を打ちこの功により、播磨、石見の
守護職を与えられました。一族としては、備後・安芸・
伊賀・備前・美作も得て、山名氏の勢力を回復。
その後赤松氏再興に助力した細川勝元と対立しだし、
足利将軍家や畠山氏、斯波氏の継嗣争いがからんで、
応仁の乱に発展。戦乱は地方へ拡大してゆく中、
西軍の大将をつとめましたが勝敗が決まらないまま
病没してしまいました。 

投稿:by いろは 2004 12 17 | 固定リンク

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                          八瀬 久  前回の概況を書いて置きたい。  赤松氏の発生から円心に至った経緯を述べた上で、赤松氏が擡頭し... 続きを読む

受信: 2005/01/19 23:16:46

コメント

おおー
山名宗全ですね!
室町時代はちょっとわかる……・笑

人物像は具体的にはないのですが、権力者の中には文学に秀でている人もたびたびいるので、山名宗全もそうだったのかなあと思って読みました。

足利義教にプレッシャーをかけられていた守護たちには興味があります。
赤松満祐(こんな字だったかな?)も好きだなあ。
播磨にはぜひ一度行ってみたいと思ってます。
山名氏はどちらかと言えば信仰?ですが(たぶん)、赤松氏は古い家ですよね。

応仁の乱も、事実関係を追うだけでも楽しいので、調べてみたいところです。

投稿者: noel (2004/12/17 9:50:44)

こんにちは
与六です。

この人物もかなりの人傑だったようですね。
当時は京より西が日本史の主な舞台だったわけで、そのど真ん中で勝ち残るのは腕力よりも政治力が物を言う時代を考えると相当政治に長けていたと思われます。
和歌も戦国の和歌よりも京寄りの公家風ですね。

投稿者: 与六 (2004/12/17 13:14:14)

 noel様 こんにちは。"いろは"です。
お返事が遅くなってしまいすいませんでした。

>足利義教にプレッシャーをかけられていた
>守護たちには興味があります。

すごい難しそうなところに興味があるのですね。
"いろは"もnoelさんがそうおっしゃるので
ちょっと興味がわいてきました。
実は室町時代はまだまだ勉強不足でよく
わかってません・・・。

>赤松満祐(こんな字だったかな?)も好きだなあ。

こういうご意見も新鮮です。調べなきゃ(笑)。
応仁の乱はなんだか長すぎて、広すぎて難しいですね。
地方へ飛び火した戦も含めると、合戦場面積日本一の
乱かもしれないですね。

今日は東軍の大将の

細川勝元

の和歌をアップしました。
またよかったら見てくださいませ~。

投稿者: いろは (2004/12/18 23:24:01)

 与六様 こんにちは。"いろは"です。
もう与六さんのことは師匠と呼ばせていただきたい
ぐらいです。なるほど京寄りの公家風なんですね。
戦国初期ではやはり色が違うのですねぇ。
腕力よりも政治力が物を言う時代と読んで、
応仁の乱が勝敗がつかず、なんとなく終わって
しまったのもうなずけるような気がしました。
いつも本当にありがとうございます。

投稿者: いろは (2004/12/18 23:24:53)

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