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2004.12.16
宇喜多秀家の辞世
「涙のみ流れて末は杭瀬川
水の泡とや消えむとすらむ」
●宇喜多秀家【生没】元亀3年(1572)~明暦元年(1655)
本人の作でなく後世の人がつくったともいわれています。
杭瀬川は関が原の合戦の前哨戦が行われた岐阜県大垣市の
西を流れる揖斐川の支流です。
「杭」と「悔い」をかけているのでしょうか?
悔いているとしたら、小早川秀秋の裏切りを食い止め
られなかったこと?遠い八丈島での配流生活が50年もの
長きにわたり、関が原で大きく人生が変わってしまった
武将の一人ですね。

秀家は岡山城の父が城中に没すると弱冠10歳で家督を継ぎ、
秀吉の備中高松城攻めの功で備中東半と備前・美作50万石
を与えられました。五大老のひとりでもあります。
関ヶ原の戦いでは西軍に参加しましたが大敗に終わり、
島津義弘を頼って薩摩に赴き3年間蟄居します。
その後死罪は免れ八丈島遠島に処せられました。
投稿:by いろは 2004 12 16 | 固定リンク
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» 関ヶ原の戦い 天満山 宇喜多秀家陣跡 from 歴史マニアへの招待
西軍の副大将、五大老の一人、豪姫の旦那であった宇喜多秀家。
陣の跡は、人気のない車道から歩いて数百mの寂しい山奥だ。
宇喜多秀家の石碑とは別に浮田秀家の石碑もあった。
宇喜多?浮田?
元々は浮田らしい。
宇喜多は当て字のようだ。
関ヶ原の戦い後、八丈島に流された宇喜多秀家。
34歳で流され、1655年に84歳で没。
50年も八丈島にいたとは!
かなり長生き!
4代目将軍徳川家綱の代まで生�... 続きを読む
受信: 2005/12/19 23:05:10
コメント
こんにちは
与六です。
関ヶ原では実質西軍の最強部隊として福島正則他を相手に一歩も引かない戦をしたのはさすがです。
美男子だったそうですね。
大坂城内ではこの人が現れるだけで奥が騒がしくなったとか。
八丈島では福島正則が秀忠に献上する酒樽をもらった話が好きです。
前田に帰った豪姫とは文のやりとりがあったようなので、本人の自作と思っていますがどうでしょう。
投稿者: 与六 (2004/12/16 13:08:58)
こんばんは、o_sole_mioです。
宇喜多秀家の母親お福は、最初の夫と死別し秀家の父直家と再婚し、直家とも死別、そしてその後豊臣秀吉の側室になったそうですから相当の美女だったようです。秀家が美男子だったのは母親にだったと思います。
私は秀家の50年間の流人生活は決して失意の中で過ごしたのではないと思っています。秀家は若くして宇喜多家の当主となったため、家中をまとめるのに苦労し、特に前田家から豪姫を娶ったあと豪姫付きの家臣と古参の家臣の間で対立があり、後ろ盾の秀吉が亡くなると宇喜多家中はいざこざが絶えず、多くの重臣が宇喜多家から離れました。そして関が原の敗戦、逃亡生活、八丈島へ流され秀家は初めて重荷から解放されたのではないでしょうか。長い後半生を流人として八丈島で過ごしたため、正確な記録は残っていませんが彼の長寿がそれを物語っていると思います。
ちなみに福島正則と酒の逸話は、正則(安芸)と秀家(備前)の領国と酒の産地(備後)そして時期(正則は程なく改易される、秀家は正則よりもずっと若い)から考えて後世の創作だと考えています。
投稿者: o_sole_mio (2004/12/17 0:06:11)
与六様 こんにちは。"いろは"です。
お返事が遅くなってしまいすいませんでした。
そうだったんですか。豪姫と文のやりとりが
あったなら、なおさら離ればなれの生活は
心中察して余りありますね。"いろは"なら
コッソリ八丈島へ行ってしまいそうですが、
上陸させてもらえないのでしょうかね。
豪姫への思いも入った和歌だとしたら、
なおさら辛い、悔しい気持ちなのに、
本人の作かどうかも後世でわかってもらえない
なんて気の毒ですね。"いろは"は本人の自作と
信じることにします。
投稿者: いろは (2004/12/18 23:21:46)
o_sole_mio様 こんにちは。"いろは"です。
お返事が遅くなってしまいすいませんでした。
貴重な解説をありがとうございます。なるほど
長寿といえば、本当に長生きでしたね。
確かに乱世や複雑な人間関係から解放されて
海を見ながらの生活も辛い日ばかりでは
なかったかもしれないですね。食べ物には困ったと
何かで読みましたが、心はそうじゃなかったかも
しれないですね。そうであって欲しいですね。
どうもありがとうございました。
投稿者: いろは (2004/12/18 23:22:34)
宇喜多秀家卿は、私の好きな武将の一人です。秀家卿は、人柄も良く、武将としての能力も優れていたといわれています。父親は、宇喜多直家公、多くの人は彼を、梟雄、と称しますが、本当にそうでしょうか。直家公が生きた時代及びその時代の宇喜多家の領国の事情、彼自身の立場、そして常に大きな毛利家の脅威にさらされていたことからして、あのように立ち回らなければ生きてゆけなかったのかもしれません。秀家卿のことを考えてみると、父親が、梟雄、などとはとても思えないし、考えたくもありません。秀家卿は、太閤殿下の恩義に報いようと、ひたすら純粋に豊臣家のことだけを考えて行動しました。関ヶ原決戦の結果は皆さんご存知の通りですが、あれだって本来は勝てたはずの戦ですよね。家康めの卑怯なかけひき、小早川秀秋はじめ、吉川広家、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの卑劣な行動、ま、それも戦略だ、などといわれれば・・・、でもそれはどう考えても、我々が抱いている、武士、のやることではありません。しかし、結果はどうあれ、秀家卿の忠節は十分賞賛に値するものだと思います。太閤殿下は、特に秀家卿をかわいがったといわれています。豊臣家の姻戚者の中ではただ一人、本当に期待に答えたこの貴公子を、太閤殿下はかわいがった甲斐があったと思います。
投稿者: 島 左近 (2004/12/30 23:45:48)
島左近様。おめでとうございます"いろは"です。
お返事が遅くなってしまい大変申し訳ございませんでした。
「梟雄」(残念でたけだけしい人。by広辞苑)の
意味を知らずに使用している人も多いのかもしれませんね。
「戦国の梟雄」などとあちこちで見かけますが、
当時の戦国武将達にとっては迷惑な表現かもしれませんね。
本当にいろいろな事情、立場、背景など、現在でははかり
しれないプレッシャーの中で生きている彼らの心情を
察する思いやりをもって歴史を見て行きたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿者: いろは (2005/01/08 21:24:42)
コメントについて
①杭瀬川の悔い
悔いは同感です。なんの悔いかを考えますと、家康が勝山(当時岡山)に着陣し態勢が整う前に攻めるべきと、各武将の進言に耳をかさなかった石田三成。彼を説得できなかった悔いと、軍律違反であったが、攻めかからなかった事に対する悔い。私はこのように解釈します。
関ヶ原の開戦の地に石碑が建っています。つまり、宇喜田秀家の陣に、福嶋正則と井伊が攻め込んだ所です。私も何度か訪れて、その辺の事を思った事があります。
②宇喜田と浮田
古文書「湯迫万燈記」には「浮田」とあります。1700代書かれた備前軍記には「宇喜田」とあります。宇喜田直家が岡山に移る前の居城「沼城」跡には浮田小学校があります。何かの本で、血筋の者が「宇喜田」を名乗るのを遠慮して「浮田」とした説を読みました。どちらでしょうかね。
投稿者: 楽遼 (2006/01/10 12:40:09)
楽遼様。こんにちは。"いろは"です。
いつもありがとうございます。
移転の為、コメントが遅くなってしまい
申し訳ございませんでした。
宇喜多氏の漢字は色々あるようですね。
本家は「宇喜多」分家は「浮田」と聞いた事が
ありますが、何の確証もありません・・・。
どちらでしょうかね。
何か確かな情報が入りましたら、このブログに
アップしたいと思います!
これからもよろしくお願いいたします。
投稿者: いろは (2006/01/16 17:39:58)


