« 秋田実季の和歌 | トップページ | 武田信玄の和歌 »
2004.12.14
武田勝頼の辞世
「おぼろなる月もほのかに雲霞
晴れて行くへの西の山の端」
●武田勝頼【生没】天文15年(1546)~天正10年(1582)
武田家滅亡のうた・・・といってもよいでしょうか。
悲しいですね。「西」には仏教用語の「西方浄土」の
意味も込められているような気がします。
「おぼろ月」や「霞」にも何か勝頼のスッキリしない
心情や無念さが染み込んでいるようです。
それでも晴れて浄土へ向かおうという下の句に
勝頼のこの時の潔さがあらわれているように
"いろは"は思います。
武田勝頼は天正元年に父、信玄が病死すると武田家を
継ぎました。しかし跡目相続はスムーズではなく、
旧勢力と新勢力の間に争いもおきます。そんな状況下、
長篠の合戦で多数の将兵を失い領国維持が困難となります。
上杉謙信没後の越後上杉氏の家督争いで景勝を支持した為、
北條氏政とも対立し、東西を強敵に囲まれました。
甲府の躑躅が崎館を捨て、韮崎に新府城を築きますが、
完成前に木曽氏が謀反を起こし、親族の穴山信君にも
反逆され、両者の手引きで織田・徳川軍が甲斐に攻め入り、
ついに天目山下の田野で一族ともに自害しました。
投稿:by いろは 2004 12 14 | 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/60018/2262890
この記事へのトラックバック一覧です: 武田勝頼の辞世:
コメント
こんにちは
与六です。
もうきっぱりと!
そんな感じがします。
愚将と言う人も多いですが、家康、信長様、景勝公、はじめ当時の武将が
「世にも隠れ無き弓取り」
と賞するほどの立派な武将だったと思います。
偉大な父の後を継いで戦に遁走。
ローマに似てる武田の政治は「戦い続ける」以外にはなかったのでしょう。
3年は動くなと遺言した父親は少し身勝手な気がします。
「勝利」して「利」をもたらす以外に結束できない武田という中世的な体質と難しい立場ですね。
この体質が信長様という「現象」の前に
「離散」「逃亡」「裏切り」
と最もわかりやすい形ででてきています。
ひとり残された勝頼は諦めること以外には選択肢はなかったのでしょう。
「降伏」すれば許されたと思います。
でも甲斐源氏の血にはそういうDNAはなかったのでしょう。
投稿者: 与六 (2004/12/14 12:31:56)
与六様 こんにちは。"いろは"です。
武田の政治がローマに似ているという表現は
"いろは"にとってとても新鮮でした。
なるほどぉぉ。というほどローマを
知らないのですが・・・。なんだかすごい!
戦国ばかりでなくもっと大きな視野をもつと
違った角度から戦国がまた見えるんですね。
もっと勉強しないと!
学生の時とは違い勉強が楽しいですねぇ。
投稿者: いろは (2004/12/15 2:23:36)


