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2004.12.24

島津義弘の辞世

「春秋の花も紅葉もとどまらず
         人も空しき関路なりけり」

●島津義弘【生没】天文4年(1535)~元和5年(1619)

 関路は関が原の合戦からの退却路をあらわしていると
いわれます。花や紅葉もとどまることを知らずに
散ってしまう、自分も空しく関が原で散ってしまったと
いうことなのでしょうか?関が原の合戦後に生きた
19年間の心境は枯れ木状態だったのかもしれません。
人は夢や希望、目的を失ってしまうと本当に活気が
なくなってしまいますよね。義弘ほどの武将が
そのような状態になってしまうのはもったいないですね。
「負ける」という事実の重さを感じます。

ff015

 島津氏は大友・少弐氏とともに九州三名家の一つに
数えられ、平安末期より近世まで連綿と700年にも
及んだ数少ない守護大名でした。義弘はその18代目
にあたり貴久の二男として薩摩の伊作城に生まれます。
兄義久から家督を譲られると肥後八代城主となりますが、
九州制圧を目前に秀吉の九州進出でその野望も
消え去りました。関ヶ原の戦いでは心ならずも西軍と
なり、戦史に残る敵中突破の大脱走を敢行。
子の忠恒に家督を譲って恭順の意をしめし、
かろうじて本領安堵されました。

投稿:by いろは 2004 12 24 | 固定リンク

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コメント

こんにちは
与六です。

維新入道にしては「不本意」な関ヶ原は最後まで忘れられない傷だったのでしょう。
私は島津は本心から伏見に入城するつもりだったと思っています。
ならば1500人という数字も納得がいきます。
太閤が造った要害に島津1500と鳥居元忠1500の3000あれば難攻不落になりえたことでしょう。
一説には言葉が通じなかった、元忠が拒んだ等々あるようですが、その全部が少しずつ重なって関ヶ原になったような気がしています。
ただ、国元の兄に派兵を再三に渡って催促していて、それを尽く拒否、黙殺されている点は兄弟で関ヶ原に対する考え方に違いがあった事も表しています。
三成には相当に恩を感じていたのも確かなようで、維新入道としては最後の最後まで難しい選択だったかもしれません。
「すれがまり」「つりのぶせ」
島津独自の最強の戦法が中央突破の退却戦にだけ使われたのも悔しかったでしょう。
兵をして死地に進んで突入する「将」。

投稿者: 与六 (2004/12/24 11:08:19)

すみません。
「すてがまり」
の間違いでした。

投稿者: 与六 (2004/12/25 0:34:02)

 与六様 こんにちは。"いろは"です。
まさに「不本意」な関が原で人生が変わってしまった
のですね。「不本意」・・・つらいですねぇ。
でも、その不本意さを言い訳にしないで生きたところが
偉いと思います。最後の辞世で「関路」と使用したのは
言い訳にはしないけれど皆に少しわかって欲しいと
思ったのかもしれないですね。
義弘公に「わかるよ~」と伝えたい・・・。
いつもありがとうございます。

投稿者: いろは (2004/12/25 4:44:52)

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